感覚の始源

640px-Salk_Institute.jpg
[ソーク研究所](出典:Wikipedia)


...つづいて私はこう考えました。最初の感覚は触覚であったに違いないと。おそらくそれが最初の感覚です。われわれの生殖の全感覚は触覚と関係しています。よりよく触れようと触覚が望んだとき、触覚から視覚が生まれました。見ることは、より正確に触れようとすることにほかならないのです。そしてこう考えました。われわれのなかのこのような力は美しいものであって、それは始源的で、形式のない存在から生じるにもかかわらず、なおも感覚できるものものだと。それはあなたのなかにいまもなお保持されています。(P.3)


ルイス・カーン建築論集を読みはじめました。


自分はカーンの建築をまだ知らない。
しかしほんの数ページを読んだだけで、彼の建築論を信じることができた。
建築の可能性を信じてみたいと思った。


...なぜなら最近の自分の頭の中にある、
自分がデザインしたいもの、デザインで実現したいもの、デザインで表現したいもの。
それらの中枢に「触れる」というテーマが絶えずあったから。




[スケッチ "Architecture comes from The Making of a room"]


私はニューヨークのルーズベルト記念公園の仕事で、私を助けてくれる人に感謝の文書を書こうとしました。その仕事はいま取り組んでいるものですが、私は記念公園がルームと庭であるべきだという考えを抱きました。これが考えたことのすべてです。なぜルームと庭を選んだのでしょうか。私は出発点を選んだにすぎません。庭はいわば個人的な自然であり、それは個人が自然をコントロールし、自然を集めたものです。一方、ルームは建築の元初でした。私はそう感覚しました。つまりルームは直ちに建築ではなく、自己の延長であるということです。この点について説明しましょう。ルームは私だけに属するものではない特性をそなえていると考えますから。ルームはあなたに建築をもたらす特性をもっています。それは建築の実践とは関わりません。まったく異なるものです。建築は本来実践とは関わらないのです。実践は建築の操作的なアスペクトです。しかし人間の表現としての建築の出現には途方もなく重要な何かがあります。なぜなら人間は表現するために生きているからです。表現することは生きるための理由です。


ずっと二次元では不満に感じていた。
どんなにキレイで迫力のある映像であっても、
所詮グラフィックは奥行きを持たない。
縦と横に無限に広がりを持っていても、奥行きはゼロの世界。

無限の可能性を追求していくなかで縦横の無限性を利用するのは有効な手段だと思う。
でもその無限性は途中過程のものであって、擬似的なもの。

触れてはじめて現実にその存在が表れる。
視覚=イマジネーションはその存在を感じるためのもの。
イマジネーションそのものに満足するためのものではない。


それを建築家が言っていることに意義がある。
いま思えばそれほどデザインを意識していない頃から、
建築に対して自分のセンサーが反応していた気がする。


ナガオカケンメイさんが自身のブログで「自分探しはしない」と言ってました。
理由は「答えやきっかけは社会にあると思うから」だそうです。

それは正しくて、説得力のある理由だと思う。
人は一人では生きられなくて、
誰かに評価してもらって人は自分の存在価値が見出せるのだから。


それでも僕は自分を探し続ける。
それはナガオカさんの考え方に反対するのではなくて、
単に自分の存在価値を見いだすためのアプローチの仕方が違うだけ。

人は一生自分のエゴから出ることはできないし、
一生他人のエゴを感じることもできない。

人からの評価もあくまで感覚器を通して、
自分のエゴを通してでしか感じることはできない。
僕のエゴは自覚せず、無視できるほど透明なものじゃない。

それならやはり自分のエゴについて、自分の感覚について、
それがどんな絶対値を持っていて、どんなベクトルを持っているのか、
調べたり探したりすることはけして無意味なことじゃないはず。


...だから僕は今なお考え続け、学び続け、手を動かし続けるのだろう。


ルイス・カーン。
彼の建築論はまた先のコルビジェやライトの著書と同じく難解そうだけど、
僕にとって避けて通れないものになりそうな気がする。