セレンディップの三人の王子

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「偶然の幸せをつかむ能力」
"Serendipity(セレンディピティ)"の語源となった物語。

セレンディップ王国の周囲にはびこる邪悪な竜を退治すべく、
また王国の外へでて多くのことを学ぶべく、
セレンディップの三人の王子は「ドラゴンに死を」という巻物(魔法)を求めて旅に出る。

さまざまな人と出会い、さまざまな出来事に出くわしながらやがて三人は...


...といったような物語。

物語中には竜をはじめとして魔法とか、「巨大な手」とか、3つの頭を持つ大蛇とか、
ファンタジー色豊かなものとなっていますが、いわゆる冒険ものといった
ほかの作品とは一線を画しているような気がします。

セレンディピティはセイロンの美しい島であり、
物語中に象や、仏像、仏舎利等などが登場してくることから
インド系の仏教色が物語に色濃く表れているといえます。
それゆえただのおとぎ話ではなく、読む人になんらかの教訓を与えてくれる。


幸運は誰の前にもある。
問題はその幸運をつかみとるには力が必要ということ。

普通おとぎ話中に三人の王子や兄弟が登場してくる場合、
たいてい上の二人は意地が悪く、末弟が素直で正直、という
キャラクターだったりするわけですが。

この物語に出てくる三人の王子は三人とも善人。

一番上のバラクラマ王子は自然を愛し、
二番目のヴィジャヨ王子は芸術を愛し、
三番目のラジャーシンハ王子は勇気を愛する。

三人は力をあわせて目の前に立ちはだかる難関に立ち向かってゆく。
そして旅の途中でそれぞれ愛する女性を見つける。
下の二人の王子は王族の姫を愛するのに対し、
上の王子は農家の娘を愛する。
この辺も他のおとぎ話とはちょっと変っていますよね。

明示的に教訓を示唆するわけでもなく、
ざっと読んだだけではセレンデイピティの言わんとするところは分からない。


訳者あとがきにはこうあります。

王子たちは目の前にある問題や物事に真剣に取り組む勇気や知恵があってこそ、探し求める魔法が自分の中にあると言うことを最後の最後に発見するのである。これこそが、「セレンディピティ」と言う言葉の語源となった真の意味であると言えよう。

セレンディピティはここ数年の僕にとって重要なキーワードとなっています。
なにか難しいことにチャレンジしようとするときにまず必要なものは、
術や方法などといった「テクニック」ではなく、
目の前にあるものをいかに「幸運」として捉えるか、というセレンディピティだと。

あまりにあたりまえすぎるとその具体像は逆に見えないのかもしれない。

でも。
大切なものって得てしてそんなものじゃないだろうか。
大切なものはいつも近くにあるのに見えない。

だから多くの人は大切なものを可視化しようとする。
でもそれは大切なものの一側面であって、全てじゃない。


見えない大切なものを見つける。
それが「冒険」ってことなんだろうね。