授業参観にはあまり良い思い出がありません。
幼少時に両親が離婚して、父方の祖父母に預けられたのですが、
祖父母とも自営業で忙しく、父兄参観どころじゃなく、
授業参観に来てもらった記憶がほとんどない。
そういうのが六年間続いたから、
小学校を卒業する頃には、そういうもんだという
あきらめに近い納得感を抱いたまま、僕は大人になった。
遊子川小学校での授業参観の日、
お父さんが急病でお母さんが病院に連れていかなかくてはならなくなった、
という生徒の授業参観のピンチヒッターを頼まれました。
この歳にして子どもを持った経験がないので、
父兄の立場で授業参観に参加したことなど当然一度もなく、
こんな自分が代役が務まるのか、という不安を感じながらも、
集落応援隊として住民の生活を「応援」するのが自分の務めだし、
限界集落での教育現場に立ち会えるのも貴重な経験だ...
ということで興味津々、不安ドキドキで行ってきました、授業参観。
学校全景。
かつては100人くらいいた生徒も今は10人。
10人の生徒には大きすぎる校舎。
各教科ごとに別々の教室、というなんとも贅沢な使い方。
給食からスタート、というなんともユニークな授業参観。
ン十年ぶりに給食を食べました。
食の嗜好の贅沢化に伴い、給食も豪勢化する中、
栄養重視の素朴なメニューで安心しました。
その後、食後の歯磨きチェック。
自らトゥースミラーで口内をチェックして、自己診断。
磨けていない箇所を口内のイラストに書き込みます。
都会だと医者にやってもらうことを、自分たちでやってる。
自立心があって、とてもしっかりしてるなあ。
午後の授業が始まる直前、両親がなんとか到着。
お父さんも大事なくて一安心。
せっかくなので、一コマ授業を見学させてもらうことに。
五年生の授業を見させてもらったのですが、
内容は野外での体験学習(僕らの頃でいう林間学校?)で学んだことの発表会。
親はただ授業を見るだけではなく、
子どもの発表に参加したり、意見を言ったり、と
人数が少ないからこそできる双方向の会話形式。
これがまた素晴らしい。
プロジェクタで写真をスライドショーで映し出し、
その写真に沿って説明してゆくのですが、もう一種のプレゼン。
多分先生の指導の元、なんども事前練習したのでしょうが、
小学生でここまでしっかり自己主張できるのか、と感心ひとしきり。
夜の大人たちの会合に取り入れたいくらい。
美大の学生たちに見習わせたいくらい。
大人たちよりよっぽどプレゼンが上手い。
大人になると、長く言葉を使っているから、
言葉で何でも説明できると思ってしまう。
しかし、言葉で伝えられることは意外と少ない。
だから人間は絵を描いたり、図を描いたりさまざまな伝達手段を使う。
言葉+別の伝達手段を用いることで、
コミュニケーションのレベルは飛躍的に向上すると思うのです。
これまで、過疎地の学校の教育レベルに正直懐疑的だった。
こんなに生徒数が少なくて、集団生活を学べるのか、と。
でも、ちゃんと学べていた。
集団での体験学習に積極的に参加し、リーダーシップまで発揮していた。
限界集落だからこそ、頑張らなきゃ、という先生に熱意が生徒にもしっかり伝わっている。
少数精鋭の教育システムがそこにはできあがっている。
人数の多い少ないで教育レベルが決定するわけじゃないんですね。
残念ながらここ数年のうちに、この学校も近隣の小学校と統廃合されるそうです。
子どもの立場からすれば、みんなとワイワイできて楽しいからいいのかな、と
漠然と思ってました。統廃合に反対する大人たちの気持ちが正直良くわからなかった。
限界集落の人たちは、「子は宝」という意識が高い。
だから子どもが地域外の学校に通って、一時的にせよ、
地域からいなくなることは本当に寂しいことだ、と言う。
子を大切にする地域は豊かな地域だ。
子は次代を担う大切な財産なのだから。
地域が豊かかどうかはお金があるかないかで決まるんじゃない。
数に物を言わせる文化=マスプロはそこを反省しなくてはならない。
人数が少なくて野球やサッカーができないのは確かに寂しいけれど、
地域全体で大切にされる田舎の子ども。
逆にあれだけ人がたくさんいながら、鍵っ子が多い都会の子ども。
どちらの子どもが孤独だろうか。
僕はけっこう大所帯の小中学校に通ったけれど、
今、親友と呼べる人間は一人もいない。
校長先生は朝礼でしか見たことがなく、話したことは一度もない。
僕の経験と一度の授業参観だけで、
田舎と都会の教育現場を正確に比較できるものではないのでしょうが、
教育の在り方について再考する価値はあるのではないでしょうか。
田舎は技術が遅れてる、というのももはや過去の話。
デジタルとソフトウェアとインターネットの進化が、
技術そのものをローカル性に縛られなくしている。
ハードは小型化が進み、デジタルがデータの保存性を高め、
インターネットがより多くの「個」を繋ぐ。
その気になれば都会の環境を田舎に再現することはそれほど苦じゃない時代だと思います。
グローバルな技術とローカルな文化のマッチング。
それを都会も田舎も今後は学んでいかなくてはならないのでしょうか。
三人寄れば文殊の知恵。
しかし、大は小兼ねない。
今後はそういう時代になっていくのでしょうね。
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