里山資本主義で元気な地域づくり

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えひめ地域政策研究センター主催の政策研究セミナーに行ってきました。
愛大の南加記念ホール。

今回の講演者はあの「里山資本主義」の著者、藻谷浩介氏。
日本総合研究所の主席研究員だそうですが、経済に疎い僕はつい最近まで、
この方を知りませんでした。

地域おこし協力隊として田舎の地域振興に携わるようになって、
周囲の人からよく勧められたのがこの「里山資本主義」の本。
中には献本までして薦めてくれる人もいました。
そして実際読んでみて、とても良い本だなと思いました。

僕は金勘定が苦手で、経済論はさっぱり分かりませんが、
それでもこの本が現代社会が抱える問題を見つめ、
その問題を解決し、より良い未来を築くにはどうしたら良いか、
考えるきっかけを与えてくれる、と感じました。

地域づくりに携わる人だけでなく、
すべての日本人に読んでもらいたい。


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プロフィール写真からは、温厚・柔和でスローペースな印象を受けましたが、
実際に壇上に上がった藻谷さんは、チャキチャキでパワフルでシャープでした。
大胆でありながら紳士的。
日本全国をくまなく歩き、国内のみならず海外にも広く目を向けてきたからこそ、
行動に裏打ちされた言葉に重みがある。

全国を講演して回って講演慣れしているのであろう、
壇上を縦横無尽に歩きまわり、講演者から観衆への一方的な押し付けではなく、
観衆と会話をしながら、コミュニケーションをとることで
観衆を惹きつけることを心得ている。

...そんな印象でした。


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里山資本主義を一言で説明するならば、


  「マネー資本主義の欠陥を補うサブシステム」


ということになります。
ここでキーとなるのが「マネー資本主義」という悪役と、
「サブシステム」という位置付けです。

マネー資本主義をもっと端的に表現すると、マネー至上主義ということでしょうか。
人間社会における絶対価値基準をマネーに置く考え方です。
対象の価値金額が大きければ大きいほど価値がある、という考え方は、
イメージとして確かに共有しやすい。

しかし、世の中には金額換算することのできない価値がたくさんある。
それを無視した社会ははたして健全といえるのだろうか。
別段マネーの存在が悪だと言ってるわけではありません。
マネーそのものは人間社会を円滑に、効率的に維持するためには必要不可欠なものです。
ただ、マネーが全てではない、ということ。
この当たり前の事実を、建て前だけでなく、本気で受け入れている人は
意外と少ないのではないだろうか。

また、お金はどれだけ収入を得たかが大事なのではなく、
どのように使ったか、が大事だということも意外と認知されていない。
あたかも人の価値を年収で判断するかのように。

自分の地域おこし協力隊としての現在の給料は、
会社員時代の給料のおよそ三分の一にも満たないけれど、
現在の人生の充実度・幸福度は会社員時代に比べて三倍以上はあると本気で思ってます。
それはこのブログを読んでいる方にも伝わっていることと思います。
収入で人の価値づけすることのなんと無意味なことか。

人はこの世に生を受けてから死ぬまで動き続ける。
だからマネーを人の価値付けに連動させるのであれば、
マネー自体も流動し続けなければならない。
マネーそのものに価値があるのではなく、
マネーと「交換」されるものに価値があるのだから。
マネーは価値ある何かに交換され続けてこそ価値があるのです。

しかし、保身本能から人はマネーを貯めこみ、マネーを「動かないもの」にしてしまう。
動かないマネーに価値はない。
それどころか健全な社会の維持を阻害するものになってゆく。
そういう戒めの意味を込めて「マネー資本主義」という悪役の存在がある。

しかし、ヒトはマネー資本主義の呪縛からなかなか逃れられない。
だからこその「サブシステム」という位置付け。
「サブシステム」なんてカタカナでカッコつけてるけど、
結局はこれも「やれることからやればいいじゃない」という、
これまた極めて当たり前の論理。

あたかも地域おこし協力隊での最初の仕事がそうであるように。
地域づくりに時間がかかるように。

マネー社会においては、マス社会の都会が中心となり、田舎(里山)は遠ざけられてきた。
しかし、それは裏をかえせば里山は金額換算できない簿外資産の宝庫だということ。
それを資本として活かしていくこと。
サブシステムという位置付けでマネー資本主義の呪縛と闘いながら、
失われた「人間らしさ」を取り戻してゆくこと。

それが「里山資本主義」の目指すものではないだろうか。