「おくりびと」オスカー受賞記念記念でテレビ放映してましたね。
東野圭吾は好きだけど。
広末涼子も好きだけど。
原作を読んでないからとか、じゃなくて。
ストーリーが現実的じゃないから、とかじゃなくて。
役者の演じ方とか、脚本のクオリティ、とかじゃなくて。
...ただある部分において、気持ち悪かった。
親と子を同一の器に入れる、というその設定が。
「いきもの」としてどうしてこういう発想ができるのか、不思議でならない。
親子は血縁的には最も近い存在だ。
しかし限りなく近くてもけして交わることのない関係。
...それが親子というものだと思う。
別に「こんなの現実的にはありえない」という点を批判したいわけじゃない。
仮定的な話でも、そこから見えてくる本質はある。
というか、すべての映画とか小説は「仮定する」ことから始まる。
仮定の有無が問題なんじゃない。
問題はその仮定の仕方。
自然界のタブーを侵さなければ、本質って伝えられないのだろうか。
自然界のタブーを侵してまで、本質って伝えなければならないのだろうか。
最近とくに「自然」について考えているからなおさらその疑問が募る。
生物は通常雄と雌がいて、互いが生殖行為をすることで子孫を増やす。
ただ、けして親子とは交わらない。
例外的に交わった場合、たいがい遺伝的に劣性な奇形児などを生む。
僕は科学者ではないのでその理由を正確に説明するのは難しいのだけれど、
生物が進化していく過程で、より強い種を残していくためには、
同じ種の中でもより多くの性格を持った多様な種からより強い種を
残していこうという本能的な選択が行われていく。
近い血筋では「性格」の多様性を展開してゆけないから、
自然界ではタブーとされているのだろう。
親子の絆とか、夫婦の愛とか、そういう大切なことを説こうとしているのは分かる。
でもそれ以前に人間も生物である。
たとえ仮定的でも自然界のタブーは侵してはならないのではないか。
それを犠牲にしてまで尊重しなければならない「人間性」って善なのか?
だから僕は近親相姦はともかく、同性愛にも反対です。
それは偏見や差別ではなく、自然界の産物としての人間の根源的な本能だと思う。
近親相姦なんて大げさな、と思う人もいるでしょう。
実際僕もここまで書いてみて少し大げさかな、と思う部分もなくはない。
...ただね。
やっぱり一つの個体に親と子の存在を同一させようという考えは
どう考えても気持ち悪い。
...この感じ方、異常だろうか。
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