活弁士によるサイレント映画鑑賞

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大学で「映像と美術」という授業をとってます。
いわゆる映画史を勉強するものですが、その授業で
活弁士による無声映画を鑑賞しました。

映画が始まった頃は無声映画で、
活弁士による講釈が入っていたというのは知識としては
ありましたが実際に鑑賞したのはもちろんはじめて。

鑑賞したのは次の三作品。

1.『チャップリンの消防夫』(1916)

  あの有名なチャップリン作品を活弁で聞くとこれまた新鮮。

2.『血煙高田馬場』(1928年、日活)

  日本映画のお家芸、チャンバラもの。
  本当は1時間半もの長編ものだそうですが紛失したとかで現在は
  6分程度と短い部分しか残ってないとか。

3.『子宝騒動』(1935年)

  和製チャップリン、と評された小倉繁主演、斎藤寅次郎監督作品。
  チャップリン作品を模倣しての軽快なドタバタ劇。


...すっごく面白かった。

活弁士は澤登翠さんというその筋ではけっこう有名な方だそうです。
僕には現在でも活弁士によるサイレント映画が上映されてる、
ということ自体が初耳で驚きでした。

全ての登場人物の台詞を微妙に声色を変えながら、
あらすじのナレーションもこなす。
あらかじめ台本は用意されているそうですがときにはアドリブで
やらなければならない箇所もある。
活弁士には物語の深み、人間の感情の深みというものを
敏感に汲みとることが重要なんだなと思いました。
人間の感情に敏感な人でないとできないと思った。


同じ映画でも現在の映画とはちょっと異なる形態のメディアだな、と感じました。
細やかな心情描写という点では現在の映画には及ばないと思いますが、
娯楽の原点、という意味では純粋に、単純に映画を楽しむことができました。

科学の発達によりなんでもかんでも複雑化され、
本来単純であるべき娯楽でさえも複雑化されていった。
複雑な世の中そのものが悪いとは思いませんが
根っこにある単純だけど重要なものを見逃しがちになる。
それを見失わない、再認識する、という意味でもトーキーが今でも
必要とされる理由が分かる気がします。


実は。
最近ブログのレビュー数が減っています。
「複雑さ」に惑わされ、物語を楽しめなくなってきていました。

またまた"セレンディピティ"みたい。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」
別にキリスト教信者でもないけど、信じることはパワーだということは分かる。


映画もドラマも、それなりに観てはいました。
でも最近純粋にそれらを楽しめない。
「くだらない」「所詮演技じゃん」「演技なんて嘘の固まりだ」とか思ってしまう。
そんな状態でレビューしても、それはとても不快なものになる気がして
ブログに記事を書く気になれませんでした。


もちろん本当にくだらなくて、嘘で固めてるのは自分自身だということは分かる。
人には希望を持つために夢が必要で、物語が必要だ。
だから僕も多くの物語を観てきたし、このブログを続けているのだと思う。
物語を描くために「演じる」ということはとても重要で大切だということは
頭では、理性では理解できていると思う。

でも今は感情がそれに追いつかない。
追いつかない、というよりあえて本来の感情を拒否して
押し殺しているような感じ。
それは恐怖からなのだと思うのだけど、
何に恐怖しているのか自分でもよく分からない。
心が不安定な状態なのかもしれない。


「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」
だから僕は求める。心の安定を。
それが大学に、デザインに僕が求めるものなのかもしれない。