武士の一分

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「武士の一分」観てきました。渋谷シネパレス
時代劇で平日昼間ということもあってか、観客の多くが年寄りでした。

別に年寄りに偏見を持ちたくはないのですが
年寄りというのはどうしてああもじっと黙っていることができないのでしょう。
映画が始まってもごそごそしたり、おしゃべりしたり。
自分もいずれは年寄りになるわけですが、黙するところは黙する。
場をわきまえることを忘れない老人になりたいものです。
これも「武士の一分」のひとつなのかな...


さて、映画のほうは...
劇的に感動する、というものではないけれど、全体的には良かった。
藤沢文学独特の人生遠回り的なつれなさ、やるせなさがよく出ていると思った。
原作(隠し剣シリーズ、『盲目剣谺返し』)は読んでないのだけど。
蝉しぐれを観たときの感覚と似ていたからそう思ったのだと思う。

そして意外と笑えるところもあった。
ジョークも利いていて、しんみりさせるところはさせる。
実に抑えるところは抑えている、そんな感じでした。


キムタクは役者的には?と個人的には思っていました。
彼が出る月9ドラマはどうにもみる気がしなかったし、
草なぎ君の演技のほうが僕はずっと好きだったのですが、
この映画では主人公の持ち味を好演してたなあと感じました。

キムタクも良かったのだけど僕がなにより気に入ったのは檀れい。
元宝塚トップスターで宝塚卒業後初の出演作ながら
キムタクの妻というヒロインを立派に演じきっていました。

どこかとらえどころのないやわらかさを持ちつつ、
芯のしっかりしている女性...役どころによるものとは思いますが
いやはや一目ぼれです。

えがったー...

つい先日、Lifeのほうで自分はサムライでありたい、と書きました。
この記事を書いたあと、無性にこの映画が観たくなったわけです。

武士として捨ててはならない「一分」とはなにか。

「誇り」か。プライドか。
「刀」か。武器(能力)なのか。

この映画を観る前から答えはでていた。
そうじゃないことは百も承知だった。

「許し」。すべてを受け入れ、許すこと。
弱みに付け込まれたとはいえ過ちを犯した妻を離縁しても、
妻を陵辱した相手を斬っても、
それは何の解決にも至らない。


妻を疑った自分を恥じ、しかし許す。さらに妻をも許す。
そこに「一分」があると僕は思う。
この映画がまさに訴えようとしている部分なのだと思う。


しかし。
頭で理解していても、「許す」というのは至難の業である。
自分を許せない者に他人は許せない。
しかしそこに武士としての技量が問われるのではないだろうか。

いい映画だった。


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