母と子の絆を証明するものは、ただ1枚の写真だけだった...
遠い昔に妹を失った兄と、母を失った子が、
かつて世間を騒がせた異国の工作員と涙の面会を果たしていた。
彼らの心中はどのようなものだったのだろう。
トップニュースで流れる画面を見ながら、
自分の状況と重ね合わさるものを感じた。
彼らのように日本国民全員が注目を寄せる悲劇のスターじゃないけれど。
妹との時間を失い、母の顔を知らないんだもの。
ちょっとくらい共感したって良いじゃないか。
親子兄妹の絆を引き裂いたものは自らの力の及ばない、
異国の横暴な国家権力だった。
それでも子は未だに母を「お母さん」と呼べずにいる。
...その気持ちは痛いほど分かる気がする。
母としての記憶がない人を「お母さん」と呼ぶ違和感。
母として育ててくれた人に対する遠慮というか、失礼を感じる気持ち。
ただこう言っては田口親子(飯塚親子)には失礼なのかもしれないけど、
ある意味幸せな面もあると思うのです。
彼らを引き裂いたのは自分たちの力の及ばない巨大な力だった。
だから憎しみは互いではなく、その巨大な力に向ければいい。
でももし、お互いの縁を裂いたのが、自分の親たちだとしたら。
子はまず親を軽蔑し、憎むだろう。
...事実そうした。
しかし親は子に通ずる。
親を憎むことは、結局自分を憎むことにほかならない。
自分の外にある自分をいくら責めてもどうすることもできない。
憎めば憎むほど、自分の首を絞めることになる。
天に向かって吐いた唾が自分の顔に落ちてくるようなものだ。
幸いにも自分はそのことに気がついてようやくその苦しみから脱しつつある。
幸いにも自分にはまだ子がいないので、自分の修復だけに専念できる。
しかし妹はまだ苦しんでいるようだ。
そして彼女には二人の子がいる。
自分の修復だけに専念するわけにもいかない。
なんとか助けてやりたいと思うけれども、
自分の修復で手一杯で余裕がないのに加えて、
僕等は時間的にも、距離的にも、あまりにも多くの絆を失ってきて、
どうすればいいか分からないでいる。
そうした喪失感がどうすることもできないむなしさとして襲ってくる。
大学での学問が遅すぎていなかったように、
家族の絆の修復もけして遅すぎる、ということはないはずだ。
...お互いが望んでいるならばね。
学問は自分一人の心次第でどうにでもできるけど、
家族は相手ありき、だから。
家族が自分とのコミュニケーションを今なお望んでいる。
...そう思うことがどうしてもできない。そう思うのが怖い。
たぶん向こうもそう思っているのかもしれない。
そうして同じ磁極が反発するように、僕等はいつまで経っても近寄れない。
これ以上裏切られたくない、という怖れがお互いを反発させる。
僕等家族が家族の絆を取り戻せるのはいつなんだろう。
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