人はなりたいものにしかなれない。
僕はそう思う。
自分は医者じゃないし、心理学者でもない。
ただの一介の「人間」。
その上であらためて。
人はその人が望むものにしかなれない。
僕はそう思う。
理性で行われるものではなく、本能で行われるもの。
本能とは、生物が生きていくうえで必要な基本生存能力。
本来本能で行う行為に苦痛は伴わないもの。
生きることを促すこと。それが本能の使命。
たとえば。
排泄や性行為をするときに快感をもたらすこと。
それは生きていく上で必要なことだからどんどんしなさいよ、
本能が促している。
排泄や性行為がこの上なく不快感をもたらすものなら、
僕らはそれらをやりたくなくなっちゃう。
だから本能は自分がなりたくないものになれ、とは
けして命令しないはず。
しかし現実には。
「こうなったのは僕が望んだからじゃない、なりゆきだ」
「気づかないうちにこんなことになっていたんだ。」
「あいつのせいでこうなったんだ。」
どれもよく聞く台詞。
しかしやっぱり僕は人は自分が望んだものにしかなれないと思う。
自分のことは自分でしか選択できないと思う。
そのなりゆきを選んだのは誰か。
あいつじゃない、自分だ。
気づかないのは自分が選択したことに気づいてないのだ。
誰かがあなたの人生を操作したわけじゃない。
例え誰かがあなたの人生を操作したとしても、
あなたはそれを拒否することができた。
でもそれをしなかったのは誰かの操作をあなた自身が受け入れた。
それはあなた自身の選択で、あなたがそう望んでやったこと。
それでも「いや、そんなことはない、自分はこんな結末を望んでいなかった」
というなら、それは自分が本当に望んでいることが分かっていないのだ。
そこに理性と本能の間にギャップが生じる。
それが「こんなはずじゃなかった」という原因になる。
人は望むものにしかなれない。
しかし。
望んだもの全てになれるわけじゃない。
望んだいくつかの中の一つになれるだけ。
だから人は多くのものを望む。
何か一つ選択できるように。
それは安全性を確保しようとする本能である。
一方で本能はシンプルだから複数の選択肢から「選ぶ」なんてことは得意じゃない。
選択は理性の仕事になる。
安全性を確保しようとする本能が逆に理性に混乱を与える。
あまりにも選択肢がありすぎて理性は混乱する。
だから人は悩む。
でもだからといってけしてそれぞれの選択肢をよく見もしないで
その数を減らそうなんてことはしちゃいけない。
自分で自分の可能性を限定しちゃいけない。
どんなに大変でもそれぞれの可能性はしっかり吟味しなくちゃ。
世の中あまりに自分に愚鈍で無頓着な人が多くないか。
自分に愚鈍な人間が他人が望むものなんて分かるものか。
エゴを感じろ。
自分が本当に望むものを知れ。
それで苦痛が増えるとしても。
苦痛が深くなるぶん、その後に得られる快楽も深くなるだろう。
隣の人がなにを望んでいるか少しは見えるようになるだろう。
...きっとそう思う。
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