サムライ

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僕はサムライだ。
いや、サムライでありたいと思う。


自分をサムライだと思うことはけして自分が強いとか、気位が高いとか、
高貴であるとか、そういうことを誇りに思うことじゃない。
武道を20年たしなんできたし、そこで学んできた武士道を誇りに思う。
良い意味でも悪い意味でも武士道は日本の誇るべき「道」だと思う。


強きものは同時に弱きものでもある。
その弱さを隠すために武士は士農工商、という身分制度をつくり、
士道を一番上に置いた。
武士が考えた制度だから武士が一番上に来るのはあたりまえで、
別に士道が一番優れているわけじゃない。

農夫、工夫、商人...士道以外の身分はそれぞれが行うべき「生業」を行い、
士道だけが生業を持たず、「仕事」をしていた。

刀を腰に差しているだけで威張り散らす。
しかしその刀で斬れるものはゴエモンばりに言えば、
「またつまらぬものを斬ってしまった...」なのである。
それは斬られるものはいつもつまらないものばかり、ということじゃなく、
刀で人を斬る、という行為は愚かだ、ということにほかならない。


サムライとはエゴを異常に意識してしまう生き物なのではないだろうか。

エゴを異常に意識するから自分を一意に決めるのを迷う。

「自分は何者なのか」
「自分が本当にすべきことはなんなのか」
「生きる、とはどういうことなのか」

考えても詮無いことをとことん考える。
自分を決めきれない。
だから農夫にも工夫にも商人にも落ち着けない。
何者にもなれないのはかっこ悪いからからとりあえず腰に刀を差して
えばり散らしているのである。
しかしそれは本当のサムライじゃない。

武芸に秀でているものが強いわけじゃない。
自分の「弱さ」を知っているものが強くなれる。
腰に刀を差さなくとも人は強くあれる。

刃は自分の心に持っていればいい。
弱い自分を切り捨てるだめだけにあればいい。

いろいろ考える、ということは何者にもなれる、ということである。
何者にもなれれば全体を考えることができるようになる。
必要に応じて農夫になり、工夫になり、商人になる。
それが本当に強い、ということであり、その強さを持った人間が
本当のサムライじゃないだろうか。

迷う自分を知り、弱い自分を知る。
自分の強さを他人と比べるのではなく、昨日の自分と比べる。
そして常に強くあり続けたいと願い、そうあるための方法を模索し続ける。

そんな本当のサムライでありたい。