叔母の肖像

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僕の家族構成はとても複雑。
その複雑さがそのまま自分の心の複雑さになっている。

僕を育ててくれた祖父母はちゃんとした説明はしてくれなかったし、
僕もそれは聞いてはいけないことだという想いもあって、
自分から聞くこともできなかった。

叔父や叔母の存在もそんな漠然としたもやの中に居る存在だった。

今日はそんな叔母の誕生日。
でも僕は一度として彼女の誕生日を祝ったことがない。
祝いたくてももう祝えない。
彼女は既にもうこの世にいないから。


...人は後悔する生き物なんだね。

生きている間になぜ「ありがとう」の一言がいえなかったのだろう。

僕の養父母は血縁的には祖父母にあたる人で、
祖父はたぶん結婚を二度ほどしているはずで、
祖父の最初の人との間に子供が一人いた。
それが僕の父にあたる人で、そのほかに祖父の後妻、
つまり現在の祖母との間に男の子と女の子が一人ずつ。
つまり父には母親の異なる弟と妹がいた。
僕にとっては叔父、叔母にあたる人だ。

叔父と僕とはちょうど一回りの年の差で叔母は叔父の二歳下。
祖父母は共働きでとても忙しく、幼い僕と妹の面倒を、
当時まだ学生だった若い叔母がよくみてくれてました。

叔母は母親に似て気性が激しく、僕らが粗相をすると激しく叱った。
今ではそれが叔母の愛情だったということは容易に理解できるけれど、
子供心にはとても怖い存在でしかなく、祖母同様忌み嫌っていた。

叔父の結婚式に僕と妹は同席できたのだけど、
叔母の結婚式にはなぜか同席させてもらえなかった。

幼い当時、叔父と叔母、僕と妹、そして僕の父は兄弟だ、と祖母から言われていた。
父はいつも家にいない一番上の兄だった。
一番上の兄なのに、「おとうさん」と呼ばされていたのは
年が離れているからだと勝手に思っていた。

そして叔父、叔母もそれぞれ「かんじにいちゃん」「まみこねえちゃん」と、
兄と姉を呼ぶような感じで呼んでいた。
ちなみに祖父母は「おとうちゃん」「おかあちゃん」と呼んでいた。

叔父の結婚式のとき僕は中学生、
叔母の結婚式のときは高校生だったはず。
兄姉弟妹なのに結婚式の席に同席させてもらえないのはどういうことだ?
...と不信感を募らせた。

叔母が結婚して家を出て、僕も学業のほうが忙しくなり、
叔母との関係は希薄になっていった。


結婚してから数年後、叔母は突然離婚した。
さらに数年後、破傷風に罹って叔母はあっけなく死んだ。
たしか30歳になってなかったと思う。

葬式には参列した気がするけれど、正直今となっては記憶にない。
それまで叔母に対していい印象をもってなかったので、
悲しいという感情が薄かったこともあるだろう。
涙を流すこともなかった。

祖母の悲しみは深かった。
しばらくは人目を忍んではよく泣いていた。
そんな祖母の哀しみを当時はよく理解できなかった。

それまでそんなに信心深い人でなかったのに、
おへんろさんで四国八十八箇所を祖父と一緒に巡礼までした。
それまで祖母の厳しさ、強さしか知らなかった僕は戸惑った。


そして。

僕自身、結婚して家事の大変さを知った。
僕自身、離婚して家族を失うことのつらさを知った。
一緒に住んでいた頃、叔母は確かにきびしかったけど、


  「どうして家族でもないあんたらの面倒をみなけりゃいけないの!」


...なんて愚痴は、一度だって口にしたことはなかった。

遊びたい盛りに僕らの面倒をみるために
少なからず貴重な時間を割いてくれていたはずだ。
だから僕は幼少時に過ごした家を、一緒に住んだ人たちを、
自分の家と家族だと思うことができた。
僕には家族があったんだと思うことができた。

叔母の愛情を今にして知った。


  「まみこねえちゃん、ありがとう。...そして誕生日おめでとう。」


...天国にいる叔母に届け。