アウン・ウォール

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直訳すると「自身の壁」。

最近特に思うこと。
僕の中に壁がある。

その壁の向こうは他人は当然見れない。
人は誰しも自我の中から出れないのだからそれは当たり前だ。
問題は自分自身がその壁の向こうが見えないこと。

人はどれだけ自分のことを分かっているのだろう。
100%?50%?

ここで誤解してほしくないのは、
「自分は将来なにになるんだろう」とか漠然と自分の未来を
知りたいということじゃない。未来なんて誰にも分からない。

よく「ヒトは自分の脳の30%も使ってない」とかいうけど、
僕がここで言いたいのはそういうことでもない。
30%だろうが10%だろうが知ったこっちゃない。

要は「自分はこういう人間なんだ」ということに
どれだけ満足してるんだろうか、ってこと。
とはいっても自分に満足している人なんてそうそういないと思う。
でも、こうありたい、と願う理想像はあるはずだ。

しかし僕にはそれがない。
なんとなく今の自分に満足していない、
でもこうありたいという理想像も明確に説明できない。
そういう自分にイライラする。悶々する。

それを一言で言うならば「自分が分からない」。

僕は両親を知らない。
正確に言えば生みの親の実像を知らない。
ただ、だからといって僕は不幸自慢をしたいわけではない。
僕は生父母を知らないことを不幸だとは思わないし、思いたくもない。

世の中には生父母を知っていても、いや知っているからこそ
不幸だ、という人がたくさんいることを僕は知っている。

ただ自分を知りたいだけ。
そして今、自分が分からない理由を
「生父母像が分からないから」だと「思い込んで」いるだけ。
実際にはそうかどうかはここではたいして意味はない。
僕がそう望んでるからそう思ってる、のは分かっている。

生みの親の実像を知っていても自分が分からない人は
五万といるだろう。そこをとやかく議論する気はない。

僕は生みの親の実像を知ることはできないだろう。
いや、知ろうと思えば今からでも知ることはできるかもしれない。
生きていて僕と会う気があるのなら。

でも僕はそれをするのがコワイ。
もしかしたら生父母と会えて話しても壁の向こうは見えないかも
しれない。そうしたら僕はもう言い訳ができなくなる。
それがコワイ。
だから僕は「生父母像を知らない」という理由付けが必要なのだ。


時折僕は壁の向こうがぼんやり見える(気がする)時がある。
壁の向こうの僕は恐ろしく凶暴だったりする。
また大胆だったりもする。寛容だったりもする。

壁を解き放つことでプラスに働くか、マイナスに働くか想像もできない。
いや、できるけどいろんなパターンが想像できる。

モテ男君で女泣かせになるかもしれないし、
実業家、起業家で成功するかもしれない。
一方で、
大泥棒になるかもしれないし、
テロリスト、殺人鬼になるかもしれないと思うこともある。

いずれにしてもただとにかく言えることは、
壁の向こうの僕は恐ろしくパワフルだってこと。

海のものとも山のものとも分からないものを閉じ込めてる
壁をいきなりぶち壊すのはいささか危険のように感じる。
でも、壁の向こうのものがパワフルなもので、
そのパワフルさをコントロールできれるなら、
それはさぞかしスバラシイことになるのは
(どっかの芸人風に)間違いない...

そのコントロールする術を僕は知りたい。
それが「自分を知る」ということじゃないだろうか。
だから僕は自分をもっと知りたい。

自分を知らない人間は他人を知ることなどできやしない。
人は他人を知ろうとするとき、まず一番身近な「自分」と比較する。
そのとき自分が分からなきゃ比較対象が見つからないのだから。

だから僕は自分を探す。
いろんなものに興味を持つ。
いろんなヒトに興味を持つ。
いや興味を持つ努力をする。

「知る」こと、それが結局僕の一番やりたいことかもしれない。
だから僕はITが好きなんだ。
なんたって「Information Technology(情報技術)」ですから。

(2006/05/21 drecomより移動、修正)