デジタル人間、アナログ人間。

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「...富む者と貧しい者にちがいはなく、ただある者は夢をみておのれをいつわり、またある者はそれをしないだけのことです。そして知恵とはすなわち、人は貧しいと知ることなのです」(小説「聖書」第4部 王たち 17章 ソロモン)


卒業制作の最後の追い込み。
...とはいっても今のところ、連日パーツ加工。

材料の木材をやすってはニスを塗り、
やすっては磨く日々。
手をナイフで切るわ、手にマメはできるわ、手がつりそうになるわ、
服は粉まみれになるわ...

翌日はひどい筋肉痛でぐったり。
作業時間としては徹夜するほどではないけれど、
思った以上の重労働。

自分で選んだ道ながら、ぐったり。

...しかし。

これがもの作りだ。
これこそが、もの作りだ。


デジタルな人間とアナログな人間がいる。

別にパソコンが使えればデジタル人間で、
使えなければアナログ人間、ということではない。

パソコンが使えるアナログ人間はいるし、
パソコンが使えないデジタル人間もいる。


僕が言いたいのは、時間感覚の個性である。

時間の「積層」に価値を求める人と、時間の「認識」に価値を求める人。
前者がデジタル人間で、後者がアナログ人間。
別にどちらが優れているか、などといった優劣を語る気はさらさらない。
ただ、好き嫌いはある。


僕は自分の中のアナログ人間が嫌いじゃない。
嫌いじゃない、なんてもんじゃない。
大好きだ。


ものを作るということは、重みを感じることである。
紙はアナログとデジタルの境にあるようなものだ。
紙で立体的にものを作ることはできるが、
そこに重さを感じることはない。
(坂さんのような建築家もいるけれど)

ものを作るとは、ただ切って、組み立てるだけではない。
切れば肌が毛羽立つ。
それをやすり、肌を保護するためにニスを塗る。
さらにもう一度やすりをかけて肌理を出し、
ウェスで磨きをかける。
この作業を150本もの丸棒と48枚ものフレーム板に対して行う。
延々と行う。
ただ見るだけでなく、触れることを考えて。

たぶん、この行為はデザインとは呼べないのだろう。
たぶん、僕はデザインそのものがやりたいのではないのだろう。
僕がやりたいのは入学時に漠然と思っていた通り、
「ものづくり」そのものだったんだと、今更ながら思う。

仕組みを考えることよりも、
誰かに指示することよりも、
形のないものにあれこれ振り回されるよりも、

ものを作っていたい。
「人」のスケールで。
大きすぎず、小さすぎず。


デジタルとは量子化の技術である。
連続するデータ量をある特定の枠で区切って(サンプリング)、
「0」か「1」の二値のみで数値化を行う。
つまりデジタル技術は膨大な連続量を数値化する技術である。

千変万化するデータをたった二値の要素だけで表現できるわけがない。
...デジタル技術が開発された当初、
誰が今のデジタル社会を予想できただろうか。


コンピュータの進化がデジタルの価値を格段に向上させた。
プロセッサの処理速度の向上に伴って、
サンプリングの枠をどんどん細かく区切っていって、
高速処理していく。

今ではデジタルといえば「高品質」というイメージが定着しているほど。
地デジがアナログ放送より画質が良いみたいに。
が、デジタル技術は元々は品質をよくするための技術ではなく、
膨大なデータを効率よく記録管理するための技術である。

コンピュータの進化により、
コツコツ同じことを繰り返す、という作業を
人間の代わりにコンピュータが肩代わりするようになった。
そして人間は「コツコツ同じことを繰り返す」ということを忘れてしまった。
常に変化を求め、新しいことに価値がある、と考えるようになった。
デジタル思考のはじまりである。


人々は「手軽さ」「便利さ」を求めるようになり。
お手軽なもの、便利なものに価値があると思うようになった。
デパートよりコンビニ。
食べ物はお金と引き替えに一瞬にして現れる。
あたかもデータ「0」から「1」へとビットが変化するように。


デジタル人間は時間の積層に価値を求める。
だから「何もしていない」ことに対して、異常に不安を感じる。
あまつさえ、「何もしていない」ことは「悪」である、という感覚すらある。
常に何かしていないと気が済まない。
彼らにとっては常に時間に追われている「忙しい」という状態が、
何よりも良い状態、とされるのである。
仕事の内容よりもこなした仕事の数が大事なのである。


一方、アナログ人間は時間の認識に価値を求める。
今、自分はどういう時間を過ごしているのか。
今、自分はどんな時間の流れに乗っているのか。
それを考えることがとても好きな人種である。

アナログ人間は、デジタル人間とは逆に、
「何もしない」という状態が何よりも良い状態となる。
その無の瞬間を追い求めて彼らはひたすら時間を考える。
何もしない、という贅沢。
彼らは「無」を追い求めてコツコツと同じことを延々と繰り返す。
その繰り返しが無我の境地へと導くのである。


こう書いていると、優劣をつける気などない、といいながら、
デジタル人間を非難し、アナログ人間をべた褒めしているじゃないか。
そう言われそうだけど、仕方がない。
好き嫌いの問題だから。

実際、現代社会が多くのデジタル人間によって支えられているのは、
十分すぎるほど認識しているつもりだし、
アナログ人間な自分がこの歳にして何もできないことが、
何よりのコンプレックスになっていたりもする。

別に「デジタル人間」「アナログ人間」を一人一人の人間に
ラベル付けしたいわけじゃない。
一人の人間の中には「デジタル人間」もいるし、「アナログ人間」もいる。
いや、いるべきだ。

僕が言いたいのは、デジタルの否定ではなく、
アナログを思い出せ、ということ。
デジタルが進化するからといって、
アナログをなおざりにして良いというわけじゃない。


一見相反するようなものであっても、
人間はそれらを内部に介在させることができる存在である。
それを人は「矛盾」というかもしれないけど、それの何が悪い。
矛盾はその存在自体が悪なのではなく、
矛盾を受け入れようとしないその姿勢が悪なのである。


人間は地デジのように全面的にアナログから切り替える必要はない。
アナログとデジタル、両者仲良く末永くつきあっていくべきなのである。

どんなに科学が進んでも、世界がアナログであることに変わりはないし、
デジタルは単なる道具なのだから。


...さあ、明日も頑張ろう。