学校論

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君がこれまで学んできたことは、それを現実の世界に応用できた時、初めて意味を持つ。サンチャゴへの道を普通の人々の道だと僕が君に説明したことを忘れてはいけない。もう千回は言ったはずだ。サンチャゴへの道においても、人生そのものにおいても、何か障害を克服する時に、われわれを助けてくれるものである場合のみ、知恵は価値を持っている。もしくぎがなかったら、かなづちはまったく意味を持たない。そしてくぎがあったとしても、『二回たたけば、あのくぎを打ち込むことができる』と思うだけでは、やはり、かなづちは役に立たない。かなづちは行動しなければならない。大工の手に自らを握らせ、それに適った使い方をさせる必要があるのだ。(パウロ・コエーリョ『星の巡礼 第十一章 征服』より)


学校で学ぶことで社会に出て役立つことなど、ほとんどない。

...かつてそう思っていた。

実際二十歳で高専を卒業して就職して社会に出たとき、
学校で学んだことはほとんど役立たず、会社で一から覚えていった。

...しかし、それは学校の特性によるものだったのだろうか。


社会に出て十四年間働き、そして再び学校という場所に戻った今、
学校という場所の特性が当初とは違ったものに見えてきた。

まず最初におことわりしておきますが。

僕は学校という場所、学生という身分が好きです。
今いる大学も、一長一短あるけれど、
それなりに好きで、学生生活をエンジョイしています。
生活は苦しいですが。

以下に述べる学校論はあくまで僕の経験によるもので、
一般論としたいわけではありません。

...まずこの前提をご了承ください。


学校とは「考える」場所である。
考えて初めてその価値が見えてくる。
「思考」と「行動」を関連づける訓練をする場所である。


若い頃、高専で学んでいたとき。
僕はほとんど考えていなかった気がする。
知識をインプットし、数式を計算し、電気の道理を実験したけれど、
それらがなんのためにあるのか、
世界にどのように作用して、どのように人々を幸せにするのか、
なにより自分がそれらの学びによりどのように世界と関わっていくのか、
一切考えることはなかった。
脳裏に浮かぶことすらなかった。

それらは人間のより深い思考の源泉へと繋がる大切な部分である。
その源泉の部分をしっかりと持たない限り、
本当の意味で人は前に進めない。

くよくよ考えているヒマがあるならまず行動せよ、と人はいう。
もちろんそれは正しいし、行動することによって発見できることは多い。
しかし思考の浅い部分だけでは行動力は持続しない。

自分で考え尽くすことができる人は強い人である。
学ぶという行為は場所を問わずに行えるということを知っている人は賢い人である。
そういう人たちに学校という場所は不要である。

弱き人々に「道標」を与えるために学校という場所はある。

それぞれの学校によって道標(=カリキュラム)は異なる。
道標はただ眺めているだけでは用を為さない。
実際に歩いてこそ、用を為す。
その「歩み」こそが「考える」という行為なのである。

歩くことをしないでただ道標だけを集め続ける。
それが学びの場所を無駄な場所にしてしまう。
意外なことに学校はそのことを教えてはくれはしない。


道標に沿って歩いたとき、そこが自分の道だと確信できればしめたものである。
その道の先には社会での行動、という目的地が待っている。
しかし中には歩いてみたけれど、自分の道ではない、ということもある。
何度歩いても、そう思ってしまうときの選択肢は2つ。
とりあえず社会に出るか、別の道標を提供する学校に変わるか。
多くの人は前者を選択する。
そのこと自体は間違いではないけれど、
自分の道がはっきりしないまま歩き続けると、たいていは迷子になる。

さんざん迷っているうちに疲れ果て、自分の道を探すことをあきらめ、
ただ機械的に歩く、という楽な道を選択してしまう。
そして「これが自分の人生なんだ」と思うようになる。
そこそこ満足して、そこそこ人生を楽しんでいる。
人生成るようになる。
くよくよ考えても仕方がない。
まあ、それも悪くないかもしれないけれど、僕は二度とゴメンだ。


一方で後者を選択する人もいる。
現代社会では道標を得るにはお金(学費)が必要であるが、
人生最初の道標の選択ではだいたい親が用意してくれる。
子供が学校へ行くのは当たり前だ、
親が子供の学費を払うのは当たり前だ、
と、社会の慣習に促されるままに学校に行っている限り、
学生に学校という場所の真価など分かりはしない。

義務教育もしくは百歩譲って高校くらいまでなら、
学校に行く意味など考えなくとも良いと思う。

しかし大学はやはり「考える」場であるべきだ。

与えられるままに集めた道標が自分の道だと勘違いしたまま社会に出る。
とうぜん自分の道ではないので、社会で役に立つはずもない。


自分のお金で道標を買う場合、
当然その道標に価値を求める。
道標の価値に対してシビアなのは当然である。
その道標が本当に自分の道を指し示すものなのか。

学校が与える道標を学生がちゃんと受け取っているか。
それが先生の学生に対する評価、いわゆる「成績」である。
ここで注意しなければならないのは、
先生がチェックするのは道標を「受け取っているかどうか」であり、
「実際に歩いているかどうか」ではない。
良い先生であれば後者までチェックしてくれることもあるけれど、
基本的に学校側にはそこまでの義務はない。
あくまで学生は自分自身で自分の「歩み」を確認しなければならない。

先生が学生の成績をつけるように、
学生も学校のカリキュラムを評価する権利がある。
この相互評価が健全に作用しない限り、学校運営は健全に展開していかない。

十人十色の個性がある以上、
すべての人に適合するような道標を用意するのはもちろん不可能である。
しかしビジネスである以上、学校はそのような道標を用意する「努力」はすべきである。

先生がキャリアを笠に着て学生に威張り散らすのを少なからず見かけるけれど、
本来、学生は「お客様」のはず。
指導者のキャリアに対して尊敬の念は持つべきだと思う。
しかし同時に「学び」というサービスを求めに来ている学生に対して
学校側は適切なサービスを提供する義務があるのは
資本主義社会において例外ではないはず。
その自覚のない教師が少なくない。


...以上を踏まえて学校教育のあるべき姿を考えると。

高校までの教育で一通りの一般教養を身に着けたあと、
2年ほど専門学校に行く。
そこでとりあえず実戦的なスキルを身に着けて社会に出る。
3年から5年働き、自力で学費を稼いだところで大学に行く。

社会に出ることで多少視野が広がり、
自分が何について、学びたいかが見えてくる。

もちろんこのようなスタイルで学ぶには個人の努力だけでは難しく、
社会がこのような学びのスタイルを許容するものでなければならない。
今のやたらと大学卒を重宝する風潮では無理な話というもの。
政治的なレベルで学校教育を考えなければならないのかもしれない。


親のすねをかじっているうちは「学び」の真価など分かりはしない。
自立心のないものに「学び」の難しさなど分かりはしない。


  『子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。
   思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし。』


働け、若人。
そして再び学べ。