学校で学ぶことで社会に出て役立つことなど、ほとんどない。
...かつてそう思っていた。
実際二十歳で高専を卒業して就職して社会に出たとき、
学校で学んだことはほとんど役立たず、会社で一から覚えていった。
...しかし、それは学校の特性によるものだったのだろうか。
社会に出て十四年間働き、そして再び学校という場所に戻った今、
学校という場所の特性が当初とは違ったものに見えてきた。
まず最初におことわりしておきますが。
僕は学校という場所、学生という身分が好きです。
今いる大学も、一長一短あるけれど、
それなりに好きで、学生生活をエンジョイしています。
生活は苦しいですが。
以下に述べる学校論はあくまで僕の経験によるもので、
一般論としたいわけではありません。
...まずこの前提をご了承ください。
学校とは「考える」場所である。
考えて初めてその価値が見えてくる。
「思考」と「行動」を関連づける訓練をする場所である。
若い頃、高専で学んでいたとき。
僕はほとんど考えていなかった気がする。
知識をインプットし、数式を計算し、電気の道理を実験したけれど、
それらがなんのためにあるのか、
世界にどのように作用して、どのように人々を幸せにするのか、
なにより自分がそれらの学びによりどのように世界と関わっていくのか、
一切考えることはなかった。
脳裏に浮かぶことすらなかった。
それらは人間のより深い思考の源泉へと繋がる大切な部分である。
その源泉の部分をしっかりと持たない限り、
本当の意味で人は前に進めない。
くよくよ考えているヒマがあるならまず行動せよ、と人はいう。
もちろんそれは正しいし、行動することによって発見できることは多い。
しかし思考の浅い部分だけでは行動力は持続しない。
自分で考え尽くすことができる人は強い人である。
学ぶという行為は場所を問わずに行えるということを知っている人は賢い人である。
そういう人たちに学校という場所は不要である。
弱き人々に「道標」を与えるために学校という場所はある。
それぞれの学校によって道標(=カリキュラム)は異なる。
道標はただ眺めているだけでは用を為さない。
実際に歩いてこそ、用を為す。
その「歩み」こそが「考える」という行為なのである。
歩くことをしないでただ道標だけを集め続ける。
それが学びの場所を無駄な場所にしてしまう。
意外なことに学校はそのことを教えてはくれはしない。
道標に沿って歩いたとき、そこが自分の道だと確信できればしめたものである。
その道の先には社会での行動、という目的地が待っている。
しかし中には歩いてみたけれど、自分の道ではない、ということもある。
何度歩いても、そう思ってしまうときの選択肢は2つ。
とりあえず社会に出るか、別の道標を提供する学校に変わるか。
多くの人は前者を選択する。
そのこと自体は間違いではないけれど、
自分の道がはっきりしないまま歩き続けると、たいていは迷子になる。
さんざん迷っているうちに疲れ果て、自分の道を探すことをあきらめ、
ただ機械的に歩く、という楽な道を選択してしまう。
そして「これが自分の人生なんだ」と思うようになる。
そこそこ満足して、そこそこ人生を楽しんでいる。
人生成るようになる。
くよくよ考えても仕方がない。
まあ、それも悪くないかもしれないけれど、僕は二度とゴメンだ。
一方で後者を選択する人もいる。
現代社会では道標を得るにはお金(学費)が必要であるが、
人生最初の道標の選択ではだいたい親が用意してくれる。
子供が学校へ行くのは当たり前だ、
親が子供の学費を払うのは当たり前だ、
と、社会の慣習に促されるままに学校に行っている限り、
学生に学校という場所の真価など分かりはしない。
義務教育もしくは百歩譲って高校くらいまでなら、
学校に行く意味など考えなくとも良いと思う。
しかし大学はやはり「考える」場であるべきだ。
与えられるままに集めた道標が自分の道だと勘違いしたまま社会に出る。
とうぜん自分の道ではないので、社会で役に立つはずもない。
自分のお金で道標を買う場合、
当然その道標に価値を求める。
道標の価値に対してシビアなのは当然である。
その道標が本当に自分の道を指し示すものなのか。
学校が与える道標を学生がちゃんと受け取っているか。
それが先生の学生に対する評価、いわゆる「成績」である。
ここで注意しなければならないのは、
先生がチェックするのは道標を「受け取っているかどうか」であり、
「実際に歩いているかどうか」ではない。
良い先生であれば後者までチェックしてくれることもあるけれど、
基本的に学校側にはそこまでの義務はない。
あくまで学生は自分自身で自分の「歩み」を確認しなければならない。
先生が学生の成績をつけるように、
学生も学校のカリキュラムを評価する権利がある。
この相互評価が健全に作用しない限り、学校運営は健全に展開していかない。
十人十色の個性がある以上、
すべての人に適合するような道標を用意するのはもちろん不可能である。
しかしビジネスである以上、学校はそのような道標を用意する「努力」はすべきである。
先生がキャリアを笠に着て学生に威張り散らすのを少なからず見かけるけれど、
本来、学生は「お客様」のはず。
指導者のキャリアに対して尊敬の念は持つべきだと思う。
しかし同時に「学び」というサービスを求めに来ている学生に対して
学校側は適切なサービスを提供する義務があるのは
資本主義社会において例外ではないはず。
その自覚のない教師が少なくない。
...以上を踏まえて学校教育のあるべき姿を考えると。
高校までの教育で一通りの一般教養を身に着けたあと、
2年ほど専門学校に行く。
そこでとりあえず実戦的なスキルを身に着けて社会に出る。
3年から5年働き、自力で学費を稼いだところで大学に行く。
社会に出ることで多少視野が広がり、
自分が何について、学びたいかが見えてくる。
もちろんこのようなスタイルで学ぶには個人の努力だけでは難しく、
社会がこのような学びのスタイルを許容するものでなければならない。
今のやたらと大学卒を重宝する風潮では無理な話というもの。
政治的なレベルで学校教育を考えなければならないのかもしれない。
親のすねをかじっているうちは「学び」の真価など分かりはしない。
自立心のないものに「学び」の難しさなど分かりはしない。
『子曰く、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。
思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし。』
働け、若人。
そして再び学べ。
ma-ke
ぼくは学校が用意している
カリキュラムというもの
には全く興味がありません。
もちろん学部時代には、
大学が提供する授業を受け、
単位をとるために勉強しましたが
その教育システムには全く
満足できませでした。
授業には身が入らず
テスト前だけ一人で自習していました。
大学院に入ると、まず研究室に所属します。
その際、指導を受けたい教授を選び、
その教授の所属する研究室に自分も所属するわけです。
指導教官である教授とは、
一緒に研究を進めるため、非常に距離が近くなります。
教授と議論しながら
どのような方向で研究を進めるか、ということからはじまり、
出てきたデータは何を意味するのか、
それをどう解釈するか、発展させるのか、
論文を書く際のイントロから結論までの構成の作り方、
発表の際の図の見せ方、説明の仕方などなど、
一緒に作業することで色々な発見があります。
まずなにより、自分の思考方法があまりにも未熟であるということを痛感させられます。
日本の学界の第一線で戦っている人間と濃密な議論ができる機会はそうは得られないでしょう。
怒鳴られることはしょっちゅう
で精神的に追い込まれることも
多いですが、そこには教授との真剣勝負があり、
そこから学ぶことはあまりにも多いです。
このような機会は本当に貴重でしょう。
講義で得られるような知識なら、
探せばネットに落ちているわけですが、
僕が得た経験というのは、お金を払って
得られるものではありません。
もちろん教授にも、学生が払っている
授業料分だけは教えてやろうなどという
考えは一ミクロンもありません。
ただ、教授が願うのは世界を揺るがすような研究成果であり
その成果を上げてやるという
目から火が出るようなやる気を持った学生には、
お互いの相互作用によって研究自体が良い方向に向かうことで、
結果的にその学生が書く論文は良い物となり、
学生は授業料には換算できない、本当に貴重な経験をすることになります。
本当の学び、意味のある学び
というのは、やはり大学の用意する
カリキュラムには存在しないと思います。
プラトンにはソクラテスがいたように、
大学に価値があるとすれば自分の
素晴らしい師を発見できるところにあるんじゃないでしょうか。
1対多数にならざるを得ない
学部では難しいことですが。
そういう意味で、社会に出て
有る程度身を固めてしまった
人間はすんなりと師を仰ぐことが
できるだろうか、という疑問が
あります。
純粋な目が必要だと思います。
(実際、大学の教育に費用対効果を望むというのは社会に出たからこそできる発想ですよね?)
まあそれは個人差があるでしょうけれど。
tadaoh
僕は院に行ったことはありませんが、良い師は社会の至るところにいますよ。
別に院に限った話ではない。
どういう人が最高の師に値するかは人それぞれであって、
けっして「日本の学界の第一線で戦っている人間」だけが最高の師とは限りません。
広く世界を受け容れる心構えがあるならば、いつだって、どこでだって良師は探せます。
> 実際、大学の教育に費用対効果を望むというのは社会に出たからこそできる発想ですよね?
そうです。
だからこそ、まずは社会である程度働いてから大学に入った方が良い、と言っているのです。
自分で身銭を切れば、カリキュラムに価値を求めるようになる。
既存のカリキュラムから少しでも価値を見出そうとするようになる。
競争原理が働き、大学も良いカリキュラムを提供しなければならなくなる。
社会人を受け容れている以上、大学だって社会なんですから。
費用対効果を求めるのは至極当然のことではないでしょうか。
それこそが「純粋な目」なのでは?
何も知らない、世間を知らないことが純粋なのでは決してないし、
それが良い師を求めるための条件でもないと思います。
tadaoh
教育はビジネスにもなる。
それは時と場合による。
親が子に行う教育。
師匠が弟子に行う教育。
...もちろんこれらはビジネスではない。
愛ゆえの尊い「教え」である。
そういう教えが大切であると思う。
かつて自分もそういう教育を受けてきたし、これからもそういう教育を受けたいと思う。
しかしビジネスにならない教育は無償であるがゆえにキワモノである。
良師は時間をかけて探せ、である。
すべてがタイミング良く噛み合えば最高の効果をもたらすが、なかなかそのようなケースは希である。
そこに教育ビジネスの参入する余地がある。
間に金をはさむとはいえ、ビジネスも人と人との関わりである。
マシンとやりとりするわけではない。
親や師ほどの深い愛ではないが、どんなに小さくともそこに愛は存在する。
だから僕は教育ビジネスの価値を信じる。
小さいがゆえにその価値は見つけにくいだろう。
しかしじっくり見つめていれば、必ず見つかるものである。
少なくとも僕は今の大学で見つけた。
不完全であっても、カリキュラムに教えられたのである。
もちろん失望させられたこともある。
今のままでは役立たないものもあろう。
しかしそこで見つめるのをやめたら永遠にカリキュラムの価値は見つからない。
誰かに学費を払ってもらっている限り、学生はカリキュラムの価値の追求にどん欲になれないのである。
だから学生は自分で身銭を切って学ぶべきだ、と僕は言いたいのである。
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自分とは違う意見があることは大いに参考にしたいと思っていますが、
あからさまな否定や感情論のごり押しは僕も人ですから不愉快に感じます。
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僕もこの場所で大衆に一般論をごり押ししたいわけではありません。
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