課題のこなし方

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SC(スペースコミュニケーーション)コースの新歓が開かれました。

主賓は3年次編入生一人と...僕。

僕に関していえば去年の最後から個人的なものも含めてこれで3回目。
...嬉しいですがちょっと恐縮です。

SCコースへはちょくちょく顔を出していたこともあり、
メンバーともほぼ全員顔見知りで、人数も14人とちょうど良く、
自分がやりたいこととカリキュラムのずれも今のところずれもなくぴったり。


...新しい環境は思った以上に快適です。

宴もたけなわ、というところで課題の取り組み方について議論が飛び交いました。

担当講師によって指導方針が微妙に異なるので、
どの講師の方針に落とし込めばいいのか分からず混乱する、とか、
「完璧な設定」さえすれば自ずと自分の作品はただ1つに収束する、とか。
デザインの課程において、デザイナーの嗜好は必要あるのか?、とか。

僕以外は僕より一回りほど年下の同級生たちですが、
思った以上に考えているんだなあ、とびっくり。
いやあ、勉強になります。


若い頃はとかく先生が言うことは絶対無二の真実に聞こえます。
だから先生によって発言内容に矛盾があると混乱してしまう、というのは
気持ちは分かる。...かつて僕もそうでした。

ただ、ある程度社会経験を経て思うことは、
「先生もただの人」ということ。

もちろん学生の僕等と異なるのは圧倒的なキャリヤであって、
そのキャリヤに敬意は表するべきです。

ただ、そのキャリヤを持ってしても世界は広く、
真実は1つではない。

たくさんある真実の中から自分にしっくりくるものを選べば良いと思う。
場合によっては真実は同時に1つではなく、2つ選べる場合もあるかもしれない。
...こんな風に考えれば先生たちの言動の矛盾にも、
違和感なく、自分に役立ちそうなアドバイスだけを取り入れることができるように
なるのではないでしょうか。


同様に「完璧な設定」による「ただ一つの答え」にも僕は懐疑的です。
それを全否定する気はないですが、それも真実の1つに過ぎない。

1つの設定に対して1つの答え、というのはいかにも数学的です。
確かに人間社会は科学技術を基盤に発達してきた。
そして科学技術の根幹には数学がある。

だから数学者や数学信奉者、理数系の人を中心に
数学で世界のすべてが表現できる、という発言には一理ある気もしますが、
一方で視野の狭い発言のようにも思える。

僕も元々は理数系の人間なので自分にもこういう側面があります。

でも。
この大学でデザインを学ぶようになってから、
少しずつ考えが変わってきた。
いや、変わってきた、というよりも進化した、というべきか。


世の中は思った以上に広い。
それは物理的なスケールのみならず、人間のエゴにおいても。
数学というスケールでは測れないものもこの世界にはある。


そして世の中は思った以上に矛盾に満ちている。
相反する2つの事柄が真実である場合もあるし、その逆もまた然り。
自分が選択したものだけが真実なのではなく、
自分が選択しなかったものにも真実は在る。


「デザインの課程において、デザイナーの嗜好は必要あるのか?」

...僕はあると思います。

お金を出すクライアントの要望を満たすのは
すべての職種において第一命題であるのはいうまでもない。

ただ、その要望の満たし方は職種によってさまざまであり、
またケースバイケースでまたさまざまである。

クライアントを知ることはもちろん重要ですが、
ただそれだけを専門に行うのは「マーケティング」であって、
もはやそれはデザインではない、と僕は思うのです。

もちろん、デザイナーにマーケティングが不要だというわけではなく、
あくまで「デザイン」の領域を考えたいだけ。
僕自身はあまりマーケティングは好きじゃないけど。

デザインとは自分の嗜好と他人の嗜好、社会の嗜好をマッチングさせること、
つまり「コミュニケーション」だと思うわけで。
自分の嗜好を無視してコミュニケーションは成立しません。

ただ、うちの大学の先生たちを見ていると、
専攻名に「○○コミュニケーション」と銘打ってるにも関わらず、
コミュニケーション能力に「?」と感じる人も少なくなくて、
時々デザインに必要なのはコミュニケーション能力だけじゃないのかな...
と思ったりもしますが。


どちらにせよ、「自分の考え」を持たないのが一番中途半端で
良くない状態ではないだろうか。

自分の中で核となるものがなければそれが正しいのか、正しくないのか、
それが多くの人や社会に受け入れられるのか、否か、
その判断ができないから。


正しいかどうかは後で判断できる。
間違っていれば後で正すこともできる。
だからまずは「自分のデザイン」というものを見つける。
そしてそれを作品はもちろん、言葉やスケッチ、プレゼンなど
いろんな手段で、いろんな表現で伝えられるようにする。

それが僕たち学生が課題に取り組む目的ではないだろうか。

僕らはお金を払って学びに来ているのであって、
先生に奉仕するために学校に来ているのではない。
先生に気に入られることは処世術としては有効かもしれないけれど、
その行為はデザインを学ぶ、という観点で真に本質的なものではない。

社会では自分で考え、自分で判断することが必要だ。
正しい考えや判断というものは社会に出て、
経験を積んで身につけてゆくものであって、
大学で学ぶものではない。
だから大学ではあくまで自分で考えて判断し、表現することだけ考えてればいい、
と僕は思う。

先生に逆らってでも押し通したい理念があるならば、
それを追求する権利が学生にはある。
もちろんいたずらに我を通すだけでは他人や先生は納得してくれない。

だから頭を動かすのと同時に、手も動かしてとにかく多くの作品を
僕たち学生は作らなければならない。
キャリヤのない僕らは「下手な鉄砲も...」という戦術しかないのだから。


己を知り、己を表現する術を知る。

それがデザインの原点だと僕は思うのですが皆さんはどうでしょうか。

念のために言いますが、
別に上から目線で年下の同級生に説教をたれるために
この記事を書いているのではありません。
自分の考えを押し付けるつもりもありません。

あくまで自分の考えを整理するためであり、自分に言い聞かせるためのものです。

もちろん自分の意見に賛同してくれる人がいればそれはそれですごく嬉しいし、
批判されれば凹みもします。


それを踏まえてコメントしてくれると嬉しいんですが...
「読んでるよ」という声はけっこうあるのですが、
なかなかコメントしてくんないんだよね...