卒業制作中間発表

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10/2-5で4年生の卒業制作の中間発表をやってます。
前半二日はデジタルデザイン、ビジュアルデザイン、
後半二日はプロダクトデザイン、スペースデザイン。

1年生の僕は授業があるので通常はその様子をのぞくのは難しいのですが、
昨日は授業が休講...
というのもその中間発表のために教室が使えないわけで。


昨日はプロダクトデザインの発表だったのですが...

その感想を一言でいうと「うーん...」。

たぶん僕の年齢もあるのでしょう。

社会人を10年以上やっていると、どうして具体性を求めてしまいます。
夢を語るのはいい。でもそれって実現できるの?
どうしてもそう思ってしまうのです。

別に発表をしていた各学生を具体的に非難する気は毛頭ありません。

僕も現役学生の頃は社会の現実なんてまるで見えてなかった。
一度も社会に出てないのだから当たり前といえば当たり前。
だから荒唐無稽な夢を若者は語れる。
一方でその荒唐無稽さを社会は必要としている。
その荒唐無稽さが社会に新しい風を吹き込んでくれるから。
荒唐無稽さを現実にリンクするのは大人がしてくれる。
だから若者は大いに夢を語ればいいと思う。

しかし僕はそうはいかない。
この歳で大学に入ったのは荒唐無稽さを取り戻すためじゃない。
時間を遡ることができないように、荒唐無稽さを取り戻すことはできない。
取り戻すことができる大人もいるのかもしれないけど、
僕にはそれが正しいことのようには思えない。
これまで過ごしてきた時間を否定する気がするから。

どんなに過ごしてきた時間に意味が見いだせなくても、
その時間を否定することはしてはならないと思う。
今はそう思う。

積み上げてきた時間は財産だ。
それを負の財産とするか、正の財産とするかは本人次第。
ならば正の財産としたほうが得じゃん。


高専での卒業研究、デジハリでの二度(WebとJava)の卒業制作。
いずれも僕は真面目に取り組めず、中途半端に終わってしまった。
それが僕の現状の中途半端さを露呈している気がする。

だから僕はこの大学での卒業制作では、「形にする」[完成させる」ことにこだわりたい。
斬新さがなくても、スケールが大きくなくても、
自分のエゴと社会を結ぶ線をデザインという形でしっかり残したい。