デザイン概論

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大学の授業で「デザイン概論」という授業があります。

デザイン学科の教授陣が毎回交代で各専門分野について語る授業で、
デジタルの先生はデジタル・デザインの話を、
グラフィックの先生はグラフィック・デザインの話を、
プロダクトの先生はプロダクト・デザインの話を、
スペースの先生はスペース・デザインの話を、
各々の趣向での講義となります。

自分のポートフォリオを紹介したり、自分の研究成果について報告したり、
著名な誰かを連れてきて講演してもらったりとその形式は先生によってさまざま。

今回はプロダクトの先生による講義だったのですが、
ほとんど活字だらけのパワポによる地味な講義だったのですが、
デザインの基礎の基礎的なことでちょっとためになったので
自分なりの解釈を加えてメモっておきます。

念のため繰り返しますが先生の講義に僕自身の解釈が加えたものなので、
僕の完全オリジナルではないし、先生の持論をそのまま代弁するものでもありません。

1.エントロピーとデザイン

人間が生物の中で一番優秀...なのかどうかは分かりませんが、
少なくとも人間の知能・知性の高さから形成される「人間社会」というものが
地球に膨大なエネルギーを消費させているのは確かなことだと言えます。
とくに20世紀は社会が要求するままにこれまでになく、
地球を「浪費」したといえます。

しかし21世紀になって、地球は永遠不滅なのものじゃない、
ということがようや認識されはじめています。

エントロピーとは熱力学第二法則という本来物理学で使用される用語であって、
「全てのものは秩序から無秩序へ移行する(混沌化していく)」現象を法則化したもの。

ここでは最初はどんなに必要とされて生まれてきたもの(秩序)も、
いずれは制御不可能な、無用なもの(無秩序)へと移行する人間の生存活動のさまを
表現するのに使われています。

例えば、生きていく上で必要な酸素も摂取されれば、不要な二酸化炭素になる、など。
(まあ地球を一定の温度に保つ、という意味では
 二酸化炭素もけして無用ではないのですがここではあえて狭義の意味で
 人間にとっては不要、という意味合いでお考えください)

ここで重要なことは、そのエントロピーには
本来生物が生きていくための「本能」による最低限の生存活動だけではなく、
社会の中で人間が行う「理性」による生存活動も含まれます。
...というより後者が生む莫大なエントロピーが今日では大きな問題と言えます。

エントロピーの逆行をネゲントロピーといいます。
実際には時を遡ることができないように、一度放出されたエネルギーが
元に戻ることは実際にはないので、ここではあくまでエントロピー作用を食い止める、
エントロピーの逆方向に作用する力、という意味合いでネゲントロピーは定義されます。

そしてネゲントロピーこそ、今後人類が重要視していかなければならない問題なのです。
ネゲントロピーの具体的な一例としてエコ対策、地球環境保全対策が挙げられます。
これまで人間のことだけ考えて放出してきたエントロピーを、
これからは地球のことを考え、排出するエントロピーを、
本当に必要なものだけに、最低限に抑えようというネゲントロピー意識が必要なのです。

分かりやすいところでは「ゴミ」。
すでに「モノ」のゴミについてはリサイクル活動などで
その量を減らす活動が進んでいますが、
情報化社会となった現代では「情報のゴミ」が新たな問題として浮上してきています。
その多様性ゆえに情報のゴミはモノのゴミ以上に見えにくい。

情報の要・不要を可視化し、「表現」すること。
これもデザイナーの大切な役割の一つです。

現代おいては「情報」を無視してモノづくりをしていくことは
ほとんど不可能になってきています。
多様化している情報を扱うにはもはや人間だけでは不可能になってきていて、
ここで情報を扱うための機械や道具(ツール)が登場します。

これらのツールを使ってデザインしたり、
あるいはこれらのツール自体をデザインすることもあるでしょう。

しかしどちらにせよ忘れてはならないのは道具は使う人次第。
使う人によって善にも悪にも貢献するものに成り得ます。
無駄なエントロピーを抑えよう、という意識を持ってこれらのツールを扱うことが大切。
そして人間は道具を使うことによって、自分自身を環境と相対的に変化させていく、
つまりは進化していくことが可能な動物なのです。

道具とそれを使うときの意識。
それが人間社会をより良い方向へ進化させていくために必要なものなのです。

その意識を今こそネゲントロピーへ向けよう。


2.経験のデザイン

「モノ」のデザインから「コト(出来事)」のデザインへ。

多様化し、複雑化する現代社会においては、
ただモノをデザインするだけでは事足らなくなっています。

そのモノを使うことでどのような出来事を体験できるのか。
ユーザーの経験自体をデザイナーは考えなければならない時代なのです。
...というよりデザイナーは本来そこまで考えなければならないのですが、
これまではそれを怠っていても何とかなる時代だった。
しかし今はそれが許される時代ではなくなった、ということでしょうか。

出来事とは経験であり、人によって経験の形態はさまざま。
多種多様の経験からどのように共通項と非共通項を区別し整理していくか。

デザイナーは情報を扱うツールにより、多くの経験を「圧縮」してそれを行う。
ユーザの経験をデザインする。
それがデザインという行為。
そしてユーザーは多くの経験が圧縮されたデザインを「解凍」して新たな経験をする。
デザイナーとユーザの関係とはそういうものではないでしょうか。


3.知識としての道具

知識とは、意識された経験の積み重ねである。
経験は誰にでもあるもの。
でも意識がされていなければそれは無に等しい。
意識された経験を積み重ねていくことで人は知識を蓄えていく動物なのです。

そして人間は生物の本能として、「忘れる」という機能も持っているため、
何度も何度も知識をインプットしていく必要があるのです。
だから人は一生学ばねばならない生き物なのです。

経験をデザインしていかねばならないデザイナーにも当然知識は必要なものなのです。
よく「デザイナーに必要なものは感性だ」と言われますが、
もちろんそれは的を外れてはいないのですが、経験をデザインしていかねばならない
昨今においては、良い感性を持つには良い知識が必要なのです。

良い感性も、自覚できなければ無に等しい。
それを自覚するために知識は必要なものなのです。
直感ももちろん大事ですが、ただ直感を利用するだけでなく、
自分の直感にどのような仕組み、構造があるのか、
意識し、蓄えてこそ直感をフル活用できるのです。

表現(経験)の中にある仕組みを観察し、そこに存在する構造(モデル)を抽出する。
それをデザインの知識として抽出し、蓄えていく。
そして知識自体を一つの道具として使っていく。
道具は使うことで、進化していくものだから、知識を使うことで、
知識はさらに進化し、より高度な知識として再構成されていく。
道具自身の進化により、さらに人間も進化していく。
だからデザイナーはデザインの知識を高めていく必要がある。
けしてえらそうにするために知識を蓄えるのではないのです。

デザイナーは自らの表現を通した行為についてじっくり観察し、
知識として高めつつ新たな表現をしていかなければならない。

だからデザイナーは時代の先端をいくものでなければならない。
その点はエンジニアと同じなのかもしれない。

バックミンスター・フラーレイモンド・ローウィのように先を行き過ぎる人は、
社会はなかなかついてこないものですが、その過程においては、
時に社会からの非難、孤独を伴うもので消して楽な道じゃない。

「デザインを科学する」
デザイナーはただデザインするだけでなく、
デザインを誰にでも扱えるものにしなければならない。
それがデザイナーが社会に貢献する一つの方法でもある。
この考え方は昨今のソフトウェアの「オープン・ソース」に共通するものだと思います。

いいものはみんなで共有する。
地球は一つなのだから。
狭い地球をみんなが壁で仕切っていたら窮屈なことこの上ない。
壁を取り払おう。
ル・コルビジェも近代建築の五原則で「自由な空間(平面・立面)」を挙げてるじゃない。


...以上これまで述べてきたことがデザインの全てだとは思いませんが、
概ねメインストリームから外れてもいないと思います。
まあデザイン学び始めの若輩者の言うことに説得力はないですが、
デザイン学科の教授のお話、という骨子があればちょっとは説得力つくかな、と。

まあどっからが先生の講義内容で、どっからが僕の解釈であるかは
あえて明言しませんが。

まあ先生の講義、といっても特許を申請するほど新規性のあるものでもないと
思うのでこれぐらいの引用は許されますよね?
なにより学生の知識の蓄積のため、
ならばむしろ先生にも喜んでいただけるのでは...

...と勝手に解釈して今回はこの辺で終わります。
長文駄文をここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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