Artistic Anatomy 【生物と芸術】

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今年最初の授業。

...補講だけど。


3年次では2科目の共通教育科目を履修しました。
1科目は中村先生の「特講Ⅰ」。
フランス芸術文学を中心に学びました。


そしてもう1科目が「生物と芸術」。
美術解剖学的見地から美を学ぶ。
...今日はこの科目の補講でした。


医学に特に興味があったわけではない。
ただ、人体をモチーフにしたカラトラバの建築を見たとき、本質的な美しさを感じた。
そこで人体の「構造」を学ぼうと思った。
それでこの科目を選択した。

全授業を終えて、今の時点で明確な答えが得られたわけではないけれど、
なんらかのヒントは得られたような気はします。


人が住む住処だもの。
人の構造を知らずして、どうして良い住処が創れよう。

今日の補講では一冊の本と、1本のDVDを鑑賞。


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カラーアトラスは実際の人体に着色することで、
複雑な構造を分かりやすく明示してあるのだけど、
いかんせんそれを映し出すプロジェクタの解像度があまり良くなく、
リアリティとしてはイマイチ。


しかしその後のDVDがすごかった。
青い服を着て、黒いハットを被ったオカルト的なドクターが、
実際のご遺体を吊して解剖していく。
皮を剥ぎ、肉を裁つ。

授業中は勉強のため、という緊張もあって冷静に見ていたのだけど、
見終えてみるとやはりそのグロテスクさに多少のショックはあったのかもしれない。

魂が抜けたご遺体とはいえ、
その身体を切り刻むことに一種の抵抗感、罪悪感が伴うのはなぜだろう。
たとえ科学のため、人類の幸福のため、という大義名分があったとしても、
それを拭うことはできない。

神という創造主がいるならば、人はその神に創られたもの。
神の創造物を魂が抜けたとはいえ、切り刻むことはやはり罪なのかもしれない。
宗教心からそう思うのではなく、自然の一部として生きる者として、そう感じるのだ。
自然の叡智を犯すべきではない、と。

己の未熟さゆえにそれが叶わないなら、
せめてその罪深さを認めて受け容れよう。


神が決めた秩序に。
神が決めた構造に。
神が決めた動作に。


そこに永遠なる美、本質的な美があるのではないだろうか。


はじめて見た人間の生の筋肉は、それほど赤くなかった。
たぶん赤いのは血だけなのだろう。
正直鶏肉とそんなに変わらないなと思った。
屍体を見た人たちがその後肉系の食べ物を食べられなくなる気持ちが少し分かった。
人間とゴリラはDNA的には2%ほどしか違わないというのもなんとなく分かる気がした。

結局人間も他の動物もそんなに変わらないのだ。
ヒトがヒトの言葉で話すように、
ゴリラはゴリラの、ニワトリはニワトリの言語で話しているのだ、きっと。
人間のようにタブーを犯さないぶん、彼らの方が賢いのかもしれない。

自然界のタブーを犯してまで美を求めようとする人間とは、
いったいいかなる生きものか。


...僕にはまだその答えは見つからない。