サンティアゴ・カラトラバ 神はサイコロを振らない【DVD】

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大学の研究室で借りたDVD。

日本ではまだメジャーじゃないのか、
カラトラバに関する本や映像はまだ少ない。

たぶんカラトラバの日本語解説の入った唯一のDVD...なのかな。
単独のDVDではなく、デルファイ研究所から出ている
現代建築家ビデオ/DVDシリーズ」の第35巻にあたります。
1枚22,000円もするというなんとも高価なDVD。
教育用なのかAmazonで検索しても出てきません。


高い学費払ってるんだもの。
こういうところで学校所蔵のライブラリを利用しない手はない。


カラトラバの存在を知って、僕ははじめて構造というものを意識した。
構造が美しさを表現するものである、ということを知った。


やはり動画というメディアは情報量が多く、写真や言葉だけでは少々分かりにくかった
部分が明確になった気がします。
カラトラバの建築に対する考えがこのビデオでさらに分かった気がします。

以下ビデオ中で印象に残った台詞を記述します。
写真はオフィシャルサイトから。


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[リヨン空港のTGV駅]

目は建築家にとって真の仕事道具だ。しかるべき秩序、あるべき姿、正しい比率を決定できる、そんな視覚的判断力さえあれば、たとえ手を失っても、建築家であり続けることができるだろう。そう考えるようになってから、私は目に関する主題、目の中を動く瞳や、まぶた、まぶたと眉の間の空間といったアイディアを取り入れた立体造形を作り始めた。ここまで来ると、もう元の有機的な形状からはかなりかけ離れ、それ自身の中に主体的な意味を持つ独立した形状になっている。

手を失っても目さえあれば、なんて素直には思えないけどデザインをしていく上で
「感覚」が重要だということをあらためて再認識させられました。
あと、カーンの本で気付いたことだけど触覚の二次的感覚として、
視覚の重要性も再認識しました。


立体造形は思索である。すくなくとも私はそう捉えている。建築も造形も形式的現象を扱うが、建築だけにできることは、外から見るだけでなく中に入れるという点である。

ここが建築の魅力なんでしょうね。
内なる探求。それはとりもなおさず人間の内面の探求にもなるのではないか。


スケッチは完全に自由である。技法に縛られることもない。ただあまりに自由で無意識なために、全くの偶然かつ制御不能なものが多々ある。それが素晴らしい美を与えてくれる。人生と同じ、一瞬先は未知の世界だ。もしスケッチが構造に役立つのだとしたら、それは全工程で唯一自然な部分だからだと思う。

スケッチの重要性を認識させてくれました。
デッサンはできなくともスケッチは最低限必要なんだと。

しかしそれにしてもカラトラバのスケッチ力のすごさには驚かされます。
ひょうひょうと簡単に正確に線を引く。
最近スケッチを頻繁するようになって、正確な「線」を描くのがいかに難しいかを
痛感しているところなのです。
やはり数多くスケッチを重ねるしかないんでしょうけど。


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[オリエント駅リスボン]

(リスボンの)オリエント駅の主題は、コンクリートの橋の上に創った森である。私はいつも建築は人工的な介入だと考えている。建築は自然を模倣することすらできない。1本の木ですら、画家や建築家の模倣した木は実もつけず、自然とは言い難い。セザンヌの絵のリンゴはリンゴではなく、寓意的な意味でのリンゴなのだ。美術と同様、建築は日常の中で芸術的感動の源を与えてくれる直接的で素朴な手段だと思う。

自然をコンセプトのベースとしながらも、自然を模倣することの難しさ、
自然を再現することの難しさを教えてくれます。
自然に敬意を払うことから建築ははじまるんでしょうね。


建物の各部は全てその建築物自体のためにある、という内包論理のように、私は全体論的傾向のある建築家だ。コンクリートがアーチになり、アーチの上にアーチが重なり、それが列車のホームになる。そこには木が生え枝分かれしてガラスのルーフを支えている。各部分は別の部分のためにあるという、この発展的傾向、これを私は全体的傾向だと考えている。それを複雑な言葉で言い換えるのは馬鹿げている。建物は生物よりずっと単純なのだしでも力の作用や機能的要素、建物自体の美しさなど、確かにある明確な相互関係が存在している。だからこれを有機的といったりするのだろう。でも私はそれほどとは思わない。樹木のようとも人体のようだとも言えるだろうが、実はただ内包的な秩序でそうなっているだけなのだ。

部分は全体のためにある。
部分と部分の関係性を考える。
それはデザインやアートの根源でもある。


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[ガル駅救援センター]

ガウディの建築は異なる材料の結合にも価値を生み出すなど、材料の視点が超越している。サンタ・テレサ学院のレンガから石膏の建物への通路、材料を使わずアーチの回廊、私はこれこそ、彼の作品の基本要素だと思う。

同じスペイン人として先達であるガウディを尊敬している様が伺えます。


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[バレンシアの映画館]

人は二面性のある世界に生きている。純粋に芸術的な世界と、数学や力学など科学に基づく厳密な規律。科学は理解するのに高度な技能を要する規律で、その点では真の芸術と似ている。つまり、科学といえども結局は人間精神の創造物だと理解するには、何年も物理や数学を勉強しないといけない。科学とは経験的モデルを通じた自然の解釈で、見たり触れたりできないものの働きについての概念、モデルを創造して得られる抽象的概念である。たとえば宇宙の働きの概念とか。つまり科学は純粋哲学から来るものなのだ。

芸術と科学、造形と構造。
デザインだけでなく構造設計もおこなったカラトラバのスタンスの原点が伺えます。
技術者だった自分がなぜデザインを学びに大学へ行ったのか。
その答えのヒントがここにある気がします。


...私は、あらゆる仕事の本質は「確定した形状は自然の形状を明確に熟知している」と理解する点にある、と考えるようになった。そして、いくつかの形状の奥にそれを発見してみると、論文で述べた秩序は、ただ自然の中に存在する秩序を映し出したものだ。それは全ての植物、タンポポの花、新芽が開きゆく過程の中に存在している。これは、全てに神性の存在を見る汎神論的感覚である。我々はあらゆるものが結晶化した世界にいる。そこでは全てが秩序と調和から成り偶然は何もない。アインシュタインの名言「神はサイコロを振らない」にもあるように、神は偶然を弄ばない。全ては明確な秩序と、いかに振る舞うかの法則でできている。もしかすると手の届かない境界まで、美しく見えるものだけでなく、常に美しく見えないものも、ほぼ無限に至るまで全てはその産物である。

ミルウォーキーの美術館などカラトラバの建築には動く仕掛けがあるものが多くありますが
その仕掛けは単にメカニカルな要素だけでなく、花が開く過程など自然の「動き」を
参考にしており、有機的な要素に基づくものであることを教えてくれます。


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[アラミロ橋]

「静止し続ける安定性」という意味では力は静的要素ではない。むしろ潜在的動きの静的要素なのだ。つまり静止しているようでも綱を1本切った瞬間、動きは現れてくる。

止まっているように見えても内部では部分部分で力が働いている。
個々の力のベクトル総和で調和を保っている。
バランスの視覚化により美を表現しているところに面白さがある気がします。


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[カンポ・ヴォランティン橋]

公共建築は人に貢献する。駅も橋も役に立つものである。橋は街に品格を与えることのできる数少ない資源の1つだ。橋の建設は単に2地点をつなぐこと以上の意味がある。橋はその場所に根本的な威厳を持たせ連結により周囲との循環を可能にする。私は、連結手段であると同時に、橋自体が1つの場所となるよう心がけている。私は、橋は生きた要素で、工業機械の技術革新か、形式的な手法の研究によってか、いずれにせよ、まだ発展する余地のあるものだと考えている。だから私の探求や分析は、馴染みのある主観的な橋の側面、静定構造だけに限られる。

カラトラバは橋を多くデザインしていますがその根源的なものが説明されています。


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[モンジュイクのオリンピックタワー]

正弦曲線を描いて波を表し、石化した水を象徴している。石化した水はルドゥー建築などに見られるひとつのメタファーである。水を石化するというアイディア、つまり波や動きを保持するというアイディアは、正弦曲線の彫刻や動く彫刻などに用いられてきた。

「動きの保持」。
いままさに「保持するもの」を課題で作っているだけになんか心に響きました。
保持するのは「モノ」だけじゃない、ってことですね。


最後にカラトラバが自分の仕事に望むことが述べられています。

私が自分の仕事に望むことは、十分考えるということ。抽象化しても尚、生き生きとしていて、単なる幾何学的表情や物真似でなく、ただの構造を越え、その先に意味を持つものとして解釈できる。しかも、それを実在する概念と結びつけることができるほど思考して作品を作りたい。もはや建築を単なる仕事ではなく、芸術として捉えられるくらいに。


人はなぜシンプル化するのか。
その答えのヒントがこの辺にあるような気がします。


ああ、カラトラバってやっぱスゴイ。