三つの愛の形

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[ミケランジェロ『ピエタ』](出典:Wikipedia)


天気が良いと、どこか行きたくなる。

しかし生来、出不精でもある。

どこか行きたい気持ちと、家でぐうたらしていたい気持ちがせめぎ合う。


そして結局どこにも行かなかったとき、
昔なら、「なんて自分はダメ人間なんだ」と激しく自己嫌悪に陥ったものだ。


しかし今はこう思う。


  「今日は身体が休息モードだったんだ」


それだけで、気分が塞ぐか、気分が楽になるか大きく状態が異なる。


同じ状況でも、捉え方によって悲劇にもなるし、幸運にもなる。
ピンチにもチャンスにもなる。
これはけして大げさな誇張ではないし、けして事実をねじ曲げることでもない。

幸運を生かす人と悲運にしか恵まれない人。
世界の大半の人々は、
この小さな考え方の差で生き方に大きく差が出ているんじゃないだろうか。


しかしこんな時、家から歩いて5分に良い場所があるって嬉しい。
たった30分でも緑のなかをぶらぶらすると、精神が充電される。


自然が僕らを生かしている。
人間が自然をコントロールしようだなんて、思い上がりも甚だしい。

すべての答えは自然という偉大な書物に記されている。
だから僕らは自然から学ばなければならない。


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こんな天気の良い日だから。

いきなりだけど、「愛」について考えよう。
今一番自分に足りないものだから。


これまでの学びから思うに、「愛」には3つの形がある。


まず「エロス」。


[コンスタンティン・ブランクーシ『接吻』]

これは一番分かりやすい、直接的な愛である。
いわゆる「男女の仲」というやつである。
一見この愛が一番大事そうに見えるけれど、
この愛は表層的なものであって、深層的なものではない。

本能に基づく愛であり、求める愛であり、所有の愛である。
この愛は相手を拘束する。
愛に関するいざこざの大半はエロスによるものである。
本能に基づくものなのに下手に理性の範疇で語ろうとするから。


二番目の愛は、「フィロス」。

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[ラファエロ『アテナイの学堂』(Wipipediaより)]

「理性」で考える愛であり、「友愛」とも呼ばれる。
いわゆる友情ってやつだ。
一番理解しやすく、それでいて軽視しがちな愛でもある。
ちょっと良識に問えば、どういうものか簡単に理解できるものである。
人付き合いを円滑に行うために必要な愛である。

ちなみに哲学(Philosophy)は、
フィロス(Philos)を洗練させた(sophisticate)ものである。


そして三番目は「アガペ」。

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[キリストの磔刑図(黄色いキリスト)(1889年)](画像は大塚国際美術館の陶板画)

与える愛であり、信じる愛である。
いわゆる「博愛」と呼ばれるやつだ。
自我を飛び越えて、相手のために何かしてあげたい、と願う無償の愛である。

人類のみならず、世界を平和に導くために必要不可欠な愛である。
アガペは人間だけが持つ愛である。
人間はエロスで身を滅ぼす。
それどころかエロスは人間のみならず、世界をも滅ぼしかねない。
だから神は人間にアガペを与えた。
しかしアダムとイヴは地上へ追放されたときにアガペを忘れた。
だから神は再びイエスにアガペを与えた。

だから人々の潜在意識にアガペはかろうじて残っている。
だからエロスの心理で成り立つ現在の貨幣経済システムにアガペの影が見られる。
他人のためになることをする、という本来アガペによって成就されることを、
報酬というエロスを隣り合わせることで補っているのである。


3つの愛の中で、どれが一番重要かは言わずもがな、である。
エロスやフィロスが重要、という社会に未来はない。

人々はアガペを想い出すべきである。
アガペを想い出させるのが「宗教」である。
「宗教」を怪しいと思わせる社会にも、やはり未来はない。


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小さな頃からずっと自分のことしか考えられない人間だった。
親にもさんざんそのことで叱られていた。
当時は叱られる理由がまったく理解できなかった。

自分が持っているものはエゴだけなのに、
なぜ自分のことだけ考えていてはいけないのか。
自分のことは自分で、という考えのどこがいけないのか。
...昔はそんな風に考えてた。


成長が遅いなりに、経験が少ないなりに、自分なりに学びを重ねたなりに思うことは、
やっぱり人間は一人じゃ生きられない、ってこと。
そのためにはどんなに自我の壁が高くても、乗り越えようとしなければならない。
ここで大事なのは乗り越えた、という事実ではなく、乗り越えよう、という姿勢である。


別に本気で世界を大改革しろというのではない。
自分とその周囲が幸せになれる方法を考えればよいのである。

多くの人がそう考えれば、連鎖で全体が幸せになってゆく。

それがネットワーク効果ってやつじゃないか。


...ってなことを日曜日の夕方、等々力渓谷を散策しながら考えた。