久々に会ったデジハリのクラスメイトから、
「アートを勉強しているなら」と、もらった一冊。
日本一ダンディーな男、白洲次郎の奥方。
以前、白洲次郎のテレビドラマを観てはじめて知ったくらいで
よく知らないのだけれど、けっこう辛辣な物言いのもの書きだったらしい。
読みはじめた頃は説教されている気分であまり面白くないなあ、
と思ってたのだけど、読み進めていくうちに、キツイ物言いのなかに
隠れている真実、人への愛が見えてきて、
最後のほうではすっかりファンになってしまった。
それはあたかも母の愛のような。
いまの日本はこういう母の愛を持った人間が少なくなりつつある気がしてならない。
それは母の愛、というもののありがたみを人々が忘れ去ったからに他ならない。
新しき物は常に古き物から生まれる。
いきなりゼロの状態から生まれることなど、けしてない。
いまの自分の状態を映し出されているようで思わずはっ、となった一文。
どれだけ考えてもこれからの自分の処遇が見えてこない。
なにをやっても中途半端な気がして。
それならば、「中途半端」の達人になろうではないか。
それも一つのパラドックスである。
この頃、自分が強く感じている本質を肯定された気がして、思わず嬉しくなった。
目に見えない「本質」はどんなに大切であっても、
それを入れる「器」がなければその要をなさない。
その意味においては、やはり「形」は大切なのである。
形を考えることは本質を考えることである。
現代社会はとにかく急ぎすぎる。
ゆっくり自分の「基礎」を造ることを疎んじて、
いきなり自分を形成しようとすることに躍起になる。
皆が同じことをしても、同じようなことをしているように見えても、
微妙な差が現れるものであり、その微妙な差が人それぞれの「個性」なのである。
自由だからといって、頭や手足の位置を組み替えることはできないのである。
自由な部分と制限される部分のバランスを知り、コントロールする。
それが「個性を育ててゆく」ということではないだろうか。
どんなに科学が進化しても、変わらない本質というものが必ずある。
だから僕らはベルニーニやモネやピカソなどの作品を、
時を越えて「美しい」と感じることができるのである。
僕は書きすぎているのだろうか。
それゆえに筆が荒れ、自分を見失っているのだろうか。
なかなか手を動かすことへ至らないのは書きすぎているからだろうか。
それにしても分からない。
書いても書いても書き足らない、表現しきれない渇望。
書きすぎていることを疑問視する一方で、
ひたすら書くことが「形」へ至る道のような気もするのである。
美大に行くようになって、
頻繁に美術館に行くようになった。
美術館という空間は心地良くてとても好きなのだけど、
その一方でどこか満足しきれないもの足りなさも感じていた。
だから、僕は同じ展示を二度見ることはほとんどない。
何かを展示するための空間を考えることも、造ることにも情熱を持つことができない。
ものに触れ、使い込むことで増す「美」というもののほうに興味がいく。
僕はやはり日本人なのだ。
ここで言う「遊び」とは、モノとモノとの間の「隙間」のことを言っているわけだけど、
この「隙間」の「遊び」と、「play」の「遊び」とは同じ字だけにまったく別物ではなく、
どこかで繋がっているのかも知れない。
真面目に根を詰めて集中することで人は学ぶのではなく、
その集中の後で精神を解放し、リラックスすることによって、
その前の緊張時の体験を学ぶことができるのだ。
よく学び、よく遊べ。
勤勉なだけでは学べない。
死ぬことを「息をひきとる」と言うのはそういうことだったのか。
生きている間に、この世界の美しいものを吸い尽くしたい。
そうすれば黄泉の国も美で溢れるであろう。
名人は危うきに遊ぶ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
獅子は我が子を谷に突き落とし、這い上がってきたものだけ育てる。
危機を好機と捉える度量と勇気を持たねば、何事も為し得ることはできぬ。
簡単なようで難しい一方で、難しいようで実は簡単だったりすることもある。
人生ってそういうパラドックスの連続だよね。