名人は危うきに遊ぶ【白洲正子】

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久々に会ったデジハリのクラスメイトから、
「アートを勉強しているなら」と、もらった一冊。


日本一ダンディーな男、白洲次郎の奥方。

以前、白洲次郎のテレビドラマを観てはじめて知ったくらいで
よく知らないのだけれど、けっこう辛辣な物言いのもの書きだったらしい。

読みはじめた頃は説教されている気分であまり面白くないなあ、
と思ってたのだけど、読み進めていくうちに、キツイ物言いのなかに
隠れている真実、人への愛が見えてきて、
最後のほうではすっかりファンになってしまった。


それはあたかも母の愛のような。
いまの日本はこういう母の愛を持った人間が少なくなりつつある気がしてならない。
それは母の愛、というもののありがたみを人々が忘れ去ったからに他ならない。

新しき物は常に古き物から生まれる。
いきなりゼロの状態から生まれることなど、けしてない。


出家はしても仏道に打ちこむわけではなく、稀代の数奇者であっても浮気者ではない、強いかと思えば女のように涙もろく、孤独を愛しながら人恋しい思いに堪えかねているといったふうで。まったく矛盾だらけでつかみ所がないのである。人間は多かれ少なかれ誰でもそういうパラドックスをしょい込んでいるものだが、大抵は苦しまぎれにいいかげんな所で妥協してしまう。だが、西行は一生そこから目を放たず、正直に、力強く、持って生まれた不徹底な人生を生きぬき、その苦しみを歌に詠んではばからなかった。(P52『西行と私』)

いまの自分の状態を映し出されているようで思わずはっ、となった一文。

どれだけ考えてもこれからの自分の処遇が見えてこない。
なにをやっても中途半端な気がして。

それならば、「中途半端」の達人になろうではないか。
それも一つのパラドックスである。


現代人はとかく形式というものを嫌う。内容さえあれば、外に現れる形なんてどうでもいいではないか、などという。そこに人間の自由があると思っているらしいが、話は逆なのである。絵画にデッサンが必要であるように、形をしっかり身につけておけば、内容は自ずから外に現れる。時には自分が思っている以上のものが現れることもある。(P62『能の型について』)

この頃、自分が強く感じている本質を肯定された気がして、思わず嬉しくなった。

目に見えない「本質」はどんなに大切であっても、
それを入れる「器」がなければその要をなさない。
その意味においては、やはり「形」は大切なのである。

形を考えることは本質を考えることである。


一般の方たちは、能のように「型」を守る伝統芸能は、みな同じことをするのだから、そんな違いがあることを不思議に思われるかも知れない。が、話は逆で、決まった型があればこそ、そこに個性の相違が表れるのである。たとえば近頃のように、「個性の尊重」とかいって、一年生の時から自由にさせておいては、永久に個性をのばすことはできまい。人間として知っておくべき基本の生きかたを身につけた上で、個性は造られるのであって、野生と自由が異なるように、生まれつきの素質と個性は違うのだ。個性は、自分自身が見出して、育てるものといっても間違ってはいないと思う。(P65『伝統芸能の難しさと面白さ』)

現代社会はとにかく急ぎすぎる。
ゆっくり自分の「基礎」を造ることを疎んじて、
いきなり自分を形成しようとすることに躍起になる。

皆が同じことをしても、同じようなことをしているように見えても、
微妙な差が現れるものであり、その微妙な差が人それぞれの「個性」なのである。

自由だからといって、頭や手足の位置を組み替えることはできないのである。
自由な部分と制限される部分のバランスを知り、コントロールする。
それが「個性を育ててゆく」ということではないだろうか。


昔もいまも、人間は少しも変わっていないことに気がつく。変わらないどころか、ますます病がひどくなって行くのは、人間が万能であると信じ、自然を畏敬する心を失ったからだろう。...(中略)...私たちに必要なのは、自然を敬い、神を畏れる心から発した、生者の魂を鎮めることにあると私は思っている。(P91『壬生狂言』)

どんなに科学が進化しても、変わらない本質というものが必ずある。

だから僕らはベルニーニやモネやピカソなどの作品を、
時を越えて「美しい」と感じることができるのである。


ただ、流行るというのはいいことだから、それについて私はとやかく言いたくはない。ただ、流行りすぎると芸が荒っぽくなるのを怖れているのであって、書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである。(P96『薪能今昔』)

僕は書きすぎているのだろうか。
それゆえに筆が荒れ、自分を見失っているのだろうか。
なかなか手を動かすことへ至らないのは書きすぎているからだろうか。

それにしても分からない。
書いても書いても書き足らない、表現しきれない渇望。

書きすぎていることを疑問視する一方で、
ひたすら書くことが「形」へ至る道のような気もするのである。


日本の道具は、鑑賞陶器と違って、人間が使うところに意味がある。いや、使わなければ死んでしまう。そういうことを強く感じた。...(中略)...「日本人の眼は昔から鑑賞陶器では納まらなかったから、物の姿や形を我が人生と観て、活用の途を工夫し、眼といふものが物をぱくぱく食わずには置かなかった。...見れば分かるという物は先ずそれっきりの物だが、これこそは人が物を人格にまで高めて眼がそこから学ばなければならない暮らしである」(P120-121『陶芸のふるさと』)

美大に行くようになって、
頻繁に美術館に行くようになった。
美術館という空間は心地良くてとても好きなのだけど、
その一方でどこか満足しきれないもの足りなさも感じていた。
だから、僕は同じ展示を二度見ることはほとんどない。

何かを展示するための空間を考えることも、造ることにも情熱を持つことができない。

ものに触れ、使い込むことで増す「美」というもののほうに興味がいく。
僕はやはり日本人なのだ。


何でもないようなことだが、「遊び」が完全にできる人は、一人か二人しかいない。(P140『はさみのあそび』)

ここで言う「遊び」とは、モノとモノとの間の「隙間」のことを言っているわけだけど、
この「隙間」の「遊び」と、「play」の「遊び」とは同じ字だけにまったく別物ではなく、
どこかで繋がっているのかも知れない。

真面目に根を詰めて集中することで人は学ぶのではなく、
その集中の後で精神を解放し、リラックスすることによって、
その前の緊張時の体験を学ぶことができるのだ。

よく学び、よく遊べ。
勤勉なだけでは学べない。


いかにも最期の生命の火が燃え尽きるという感じで、私の記憶に間違いがなければ、そういう呼吸のことをシャイネストークというと、あとから先生が話して下さった。空気は吸っても、吐く力を失った時が臨終で、「息をひきとる」という言葉もそこから出たものにちがいない。(P202『息をひきとる』)

死ぬことを「息をひきとる」と言うのはそういうことだったのか。
生きている間に、この世界の美しいものを吸い尽くしたい。

そうすれば黄泉の国も美で溢れるであろう。


名人は危うきに遊ぶ。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
獅子は我が子を谷に突き落とし、這い上がってきたものだけ育てる。

危機を好機と捉える度量と勇気を持たねば、何事も為し得ることはできぬ。
簡単なようで難しい一方で、難しいようで実は簡単だったりすることもある。

人生ってそういうパラドックスの連続だよね。