中村先生の「特講Ⅰ」の授業で取り上げられた作品。
バタイユのエロティシズム哲学を学びました。
エロティシズムに哲学などあるのか?
エロティシズムは種の繁栄のための一本能に過ぎないのではないか?
エロティシズムの本質を学ぶことで僕らは何を得るのか?
...興味は尽きないところですが。
本書には表題の『マダム・エドワルダ』の他に、
『死者』、『眼球譚』および論説『エロティシズムに関する逆説』と、
アンドレ・ブルトン、ハンス・ベルメールらが出席する
討論会『エロティシズムと死の魅惑』が収録されています。
『マダム・エドワルダ』自体はとても短い物語で、
その後に続く『死者』、『眼球譚』のほうがボリューム的には大きい。
授業の題材として出会わなければ、
これらの文学は単なるエロ小説、変態小説としか捉えられなかっただろう。
エロ小説ならまだしも、変態的行為の羅列には誰しも嫌悪感を抱くのではないだろうか。
しかしその嫌悪感こそ、バタイユの求める哲学の源ではないだろうか。
食事、排泄、性行為...
人は生存のための本能の遂行に快楽を感じるようにできている。
通常食事行為を不浄なものと捉える感覚は皆無であるのに対し、
排泄と性行為は不浄なものと捉える感覚がある。
不要となった異物を体内に抱えている、という嫌悪。
排泄行為はまあ直接的な感覚であることは分かる。
しかし種を永続的に繁栄させていくために最も重要な行為であるはずの性行為に
どうして人は嫌悪感を抱くのだろう。
安易な性行為はもちろん、性行為について軽々しく語ることをタブーとし、
そうすることを「恥ずかしい」「嫌らしい」「穢らわしい」こととする。
本来は神聖な儀式であるはずの行為を軽視することへ軽蔑。
それはまあ分かるけど、それを差し引いても、
性行為への誘発物「エロティシズム」への根元的な蔑視が人間のどこかにはある。
正直『マダム・エドワルダ』『死者』『眼球譚』を読むだけではこれらの謎は解明されない。
前述したようなエロ小説、変態小説以上のものは見えてこない。
だからそれを補足するための論説と討論会、
および訳者による解説が収録されているんだろうけど。
しかし今の時点では、それらを読んでも僕にはよく分からない。
バタイユのエロティシズムを中村先生は
「生」「死」「性」をそれぞれ頂点とする「バタイユの三角形」で説明していました。
生のはじまりと共に死へ向かうもの。
それが「エロティシズム」である。
人は生を受けた瞬間から、エゴという牢獄に囚われ、一生そこから出ることはできない。
それは悲しい孤独な旅である。
しかしその牢獄には窓がある。外から光が差し込んでくる。
同時に牢獄自身も光を発している。
その光が人々に喜びをもたらす。
自分の光を誰かに発し、誰かの光を窓から取り入れる。
それが「繋がる喜び」である。
人間社会はその喜びの分子で成り立っている。
生きている間は非連続であり続けるしかない悲しい性。
その悲しい性を乗り越えるために人は繋がることで一瞬の連続性を得る。
非連続の生は無限の連続性である死へと向かう。
その意味でエロティシズムは生きながらにして経験する死なのである。
それはいずれ迎える死に対しての備えなのかもしれない。
死は避けられないものでありながら、
生物は死を避けようとする。
生きようとする本能が死を遠ざけようとする。
だから一瞬でも死を経験しようとするエロティシズムは
崇高な目的を持ちながらも敬遠されるのである。
「死」は完全性への入口である。
それは一切の無であり、完全であり、永遠である。
生を終えようとするまさにその瞬間、人は神になるのである。
消えかかる生の意識の中で神を見るのである。
生きながらにして死を刹那的に具現する。
それがマダム・エドワルダの「私は神よ」という台詞の真意なのではないだろうか。
エロティシズムを蔑むな。
しかしエロティシズムを弄ぶこともするな。