建築家の講義【ルイス・カーン】

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丸善の「建築家の講義」シリーズ。

今回はルイス・カーン。

数ある建築家の中でも、もっと詩的で哲学的な言葉を発する一人。
大好きな建築家の一人です。

本書は1968年にライス大学建築学科での講義とそれに続く質疑応答を記録したもの。
およそ40年以上もの時の流れなど、微塵も感じさせず、
今読んでもその内容は心に深く突き刺さる。

それはとりもなおさず、彼が本質を語っているから。


本当の魅力とは、本質に結びつくものでなければならない。
流行はあくまで本質へとドライブするためのトリガーであり、エネルギーである。



[キンベル美術館]


[フィリップ・エクスター・アカデミー図書館]


生きることの理由は表現すること・・・・・・憎しみを表現し・・・・・・、愛を表現し・・・・・・、統合と能力を表現する・・・・・・、すべてかたちのないものです。心は、魂であって頭脳は道具であり、ここから私たちの独自性は生み出され、私たちの姿勢がつくられます。ゴーゴリの小説は、山の話でもあれば、子どもの話でもあり、へびの話にもなります。それはこのように「選ぶ」ことのできるものです。自然は、このように選ぶことはできません・・・・・・・それは、ただその法則を展開するだけで、すべては、偶然の働きによってデザインされるのですが、人間はそうではなく、選び取るのです。芸術とは、まさにこの選び取りであり人間の行うことのすべては、芸術のうちにおいて行われるのです。(P10 白い光、黒い影)

人間だけが望むこと。
それが「選択」であり、「表現」であり、「創造」である。


「私が思うに、少年会館とは、そこからの場所、とでもいうべきものじゃないですか。「そこへ」の場所ではなく、「そこから」の場所、ということです。その場所における精神とは、「そこから」どこへ行くか、というものであって、そこへ向かうというものではない、と思います。」...(中略)...学校は「そこへ」の場所でしょうか、「そこから」の場所でしょうか。(P22 白い光、黒い影)

「そこへ」の場所と、「そこから」の場所。
建物は常に静止して動かないけれど、
「建築」そのものは「流れ」を意識したものでなければならない。

学校、オフィスは「そこから」の場所。
家や公園は「そこへ」の場所。
究極の「そこから」の場所は病院であり、究極の「そこへ」の場所は墓場ではないだろうか。


科学は、すでにそこにあるものを見出しますが、芸術は、まだそこにないものをつくり出します。(P26 白い光、黒い影)

科学と芸術の差異。
すでにそこにあるものを知ることで、新しく造るべきものを知る。


建築とは、「現実に存在しているものではない」ということです。存在しているのは建築のある作品です。建築とは心の中にのみ存在しているのです。建築のひとつの作品をつくるとは、建築の精神へのひとつの捧げものとしてつくる、ということです・・・・・・。精神はいかなるかたちも持っていません。いかなる技術も、いかなる方法も持っていない。それは、ただ自分が表現されるものを待っているのです。建築はただ、具体化として、すなわち測り得ないものの具体化として存在しているのです。あなたは、パルテノンを測り得ますか。決してできません。やったらその生命はなくなります。あなたはパンテオンを測り得ますか。人間の制度に応える、あの素晴らしい建物を。(P37 白い光、黒い影)

建物そのものが建築なのではなく、建物に宿る魂が建築なのだ。

ハドリアヌス帝が造った建築は、「誰もがお祈りに来ることができる場所」だった。
だからパンテオンには方角がない。
究極のシンプルさが究極の建築となって二千年もの時を越えた。


フォームは、かたちを持たず、寸法も持たない。フォームは本質と特性を持つだけだ。それは、分かちがたい部分から成り立っている。それからひとつの部分を取り去れば、フォームは消えてしまう。これがフォームです。デザインとは、フォームをあるべきものへと翻訳することです。フォームは存在しますが、実在はしない。デザインとは実在に向かって進むことです。しかし、存在は精神的な存在ですから、それを具体的なものとするためにデザインされるのです。フォーム・ドローイングと呼ばれるものは、何ものかの本性を示すために描かれるものです。(P52 デザインとは、フォームからかたちへと向かうこと)

「フォーム」から「シェイプ」へ。
かたちのないものからかたちあるものへ。
デザインの役割がとても分かりやすく語られている。

CGでフォーム・ドローイングはできない。
そこに本質はないから。


実際に外部空間を根拠付けるのは内部空間なのです。都市的な必要に応ずるのは、たとえその一部だったとしても。その良い点は、ひとりの人がそれをなし得る、というところにあります。委員会がそれをなし得るとは、私には思えないのです。委員会が、ものごとの本質をとらえ得るとは、私には思えないのです。それをなし得るのは、ひとりの人です。このひとりの人が行うことは、デザインすることではありません。その人は、単に企画するのだ、と言われるかもしれません。その人は、本性をとらえるのです。ひとりの人が行い得ることとは、このことであり、建物を建てることではないのです。本質を論ずることなしにこのことを切り離してしまうなら、ひとつにまとめる力を失うことになります。ものとしてひとつになっていたとしても、精神においては、まったくそうでないものとなってしまう。時が経ち、建物が自らを表現することが求められるようになった時、それが欠如していることになる。...(中略)...委員会ではなく、ひとりの人が、その本性を具体化する役割につく。したがって、その集団の仕事は、ひとりの人の仕事として生み出され、そして何に価値があり、何に価値がないか、が示されるのです。ひとりの人の仕事は、表現が可能であったなら社会的影響の積み重ねに属することになる。作品はそのようにして生まれ、社会はそこからつくられる。そして社会こそが、究極の目的を与えるのです。(P57-59 デザインとは、フォームからかたちへと向かうこと)

建築はそのスケールゆえに決して一人では構築できない。
しかしその始まりにおいては一人の「建築家」によりはじめられなければならない。

それはなぜなのだろうか?
人間の内部イメージはエゴという壁を越えると鈍化してしまうから?

...分かる気はするけど、まだ自分の中では上手く整理できない。


建築は存在しない、と告げているのが建築の精神です・・・・・・その精神が告げているのはそういうことです。その精神は様式を持たず、方法も持たない。それは、何ものにもなり得る者です。そうであるが故に、人は、何ものかを捧げる謙虚さを、建築への捧げものを、育てねばならない。ひとりの建築家は、建築の宝庫の一部分であり、その宝庫にパルテノンは属し、そのパルテノンの属するところに、ルネサンスの偉大なる活動も属している。これらすべてが、建築に属しており、それを豊かなものにする。それらすべてが捧げものなのです。(P62 デザインとは、フォームからかたちへと向かうこと)

建築は所有するものでなく、捧げるものでなければならない。
所有は停滞を産み、やがては消えゆく。
宗教建築が時を越えて残ってゆくのはそういうことなのだろうか。


建築はどんなに慎重になってもし過ぎることはない。
それだけの奥深さと魅力があると思うから。

中途半端なものを造ることほど悲しいことはない。