かもめのジョナサン【リチャード・バック】

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リチャード・バック著。
五木寛之訳。

ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき。さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なことは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。(Part One)


この本はタイトル通り、カモメのジョナサンの物語。

しかし。
これは本当は人間自身の物語であることは、
誰の目にも明らかではないだろうか。


好き嫌いはどんな生物にも見られる志向ではあるけれど、
好きなものにエネルギーつぎ込むことができる生きものは
人間だけではないだろうか。


そこが人間だけが唯一持っている性癖であり、
知恵の根源であり、諸悪の根源でもある。


「学ぶ」ということについてあらためて考えさせられた一冊。


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優しさについて学べば学ぶほど、また愛の意味を知ろうとつとめればつとめるほど、ジョナサンは、一層、地上へ帰りたいという思いに駆られた。それというのも、ジョナサンは、これまで孤独な生き方をしてきたにもかかわらず、生まれながらにして教師たるべく運命づけられていたからだし、また、独力で真実を発見しようとチャンスをさがしているカモメに対して、すでに自分が見いだした真実の何分の一かでもわかち与えるということこそ、自分の愛を証明する彼なりのやり方のように思えたからである。(Part Two)

著者のリチャード・バック氏自身、プロの飛行機乗りで、
カモメが飛ぶ様子を事細かに描写されているけれど、
本書が世界的に名著たらしめているのはそういう部分じゃない。

飛行機なんてただの一度も運転したことのない僕にとっては、
そういう表現はよく理解できなかったし。


この本は全体的にメタファーが多分に使われています。
キリスト教的な表現を感じる部分もあるし、
禅問答的な表現を感じる部分もある。

人間ってどうしてこういうメタファーを好むのだろう。
人間について説きたいなら、カモメではなく、
直接人間を登場させればいいじゃない。

しかし、人間(というか生物)は「あたりまえ」のことは意識しないもの。
これはごく自然な本能で、そうしないとすべての情報を意識下で
処理しなければならず、頭がパンクしてしまう。

でも人間はあまりに想像力が豊かな生きものだから、
時に本能(本質)を越えて、タブーを侵してしまうことがある。
そういうことを防ぐために僕等は時々本質を再確認しなきゃならない。

本質とはシンプルで、地味で平凡なものである。
そうしたものを意識するには、平凡なものを特殊なものへと変化させ、
客観的に捉えられるようにしなきゃならない。
それがメタファー、という表現の必要性なのではないだろうか。


「学ぶ」という行為は本来孤独なものである。
なぜならその目的が自分の真性を見つけることにあるから。
どんなに自分に近い存在でも自分のエゴに第三者が入り込むことはできない。
自分の真性は自分で見つけるしかない。
自分の真性を見つけることは幸福の第一段階である。

幸福の第二段階は見つけた自分の真性を、
第三者のために、社会のために役立てることである。
この段階で必要な行為が「コミュニケーション」じゃないだろうか。


Part Oneではジョナサンはひたすら孤独であった。
本来なにかを学ぶには孤独であることが基本なのかもしれない。
しかし孤独の中で学び続けるのにはかなりのエネルギーが要る。
だから「学校」という場所でお互い学ぶことを励まし合うのだろう。

Part Twoではジョナサンは同じ志をもつ同志と出会い、共に学ぶ。
「共に学ぶ」という行為がコミュニケーションということなのかもしれない。
しかしそれぞれ違う真性の中で共に学ぶ事はストレスがたまるものである。
だから「学校」という場所でコミュニケーションを「学ぶ」のだろう。

Part Threeではジョナサンの同志たちは社会に戻り、
自分の能力を社会に役立てたいと願うようになる。
しかしさまざまな個性(真性)が混ざり合う中では、
自分の真性を見失いがちである。
しかし人はいつか「学校」という場所から旅立たねばならない。


彼(ジョナサン)はごく単純なことを話した。-つまりカモメにとって飛ぶのは正当なことであり、自由はカモメの本性そのものであり、そしてその自由を邪魔するものは、儀式であれ、迷信であれ、またいかなる形の制約であれ、捨て去るべきである、と。「捨て去っていいのですか」と、群衆の中から一つの声があがった。「それがたとえ群れの掟であっても?」「正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ」ジョナサンは言った。「それ以外に掟はない」(Part Three)

物理世界に生きる以上、人間がどんなに知恵のある生きものであっても、
物理的な限界というものはある。

しかし人間はその「思考」によって物理的限界以上に自分を制約している。

その知恵故に自分の可能性を低くしてしまう、というなんとも逆説的で皮肉な話。
多くの人間がそういう制約を自分自身で与えている。
環境や境遇、第三者の介入などに自分の小ささを転嫁するけれど、
最終的に自分を小さくせしめているのは、自分の思考なんだ。


本書を訳した五木寛之氏自身、
解説でこの本の内容について批判的な態度をとっています。

「女性」が一切登場しないこと、
食べることと性描写が注意深く排除されていること、
「群れる」行為を低く見ていること、

等々...


どんなに優れた作家でも、売れっ子の作家でも、
すべての人を満足させる言葉などないと思う。

すべての人々の個性(真性)は基本的に違うのだから。
言葉がすべてを表すものではないのだから。

それなら自分の可能性を潰していくものよりも、
自分の可能性を伸ばしていくものに主観を置くべきではないだろうか。
自分の可能性を伸ばしていく方向に解釈すればいいのではないだろうか。
もちろん無理矢理にではなく、自然にだけど。

そのスタイルの転換により人間は自信の可能性を50%増加させられる。


結局のところ、自分を縛るものは自分自身であり、
自分を開放するのもまた自分自身なのだ。


[追記]

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1970年の初版から44年。
幻の最終章「Part Four」が収められた完全版が出版となりました。
最初に世に出す時には発表する気がなかった最終章を、
半世紀の月日を経て発表する気になった著者の心境の変化とはどのようなものだろうか。

彼らがつまらぬ知識を求めれば求めるほど、フレッチャーは落ち着かない気持になった。ひとたび、メッセージを学ぶことに興味を持つと、彼らは厄介な努力を、つまり訓練、高速飛行、自由、空で輝くことなどを怠るようになっていった。そしてジョナサンの伝説のほうにややもすれば狂気じみた目を向けはじめた。(Part Four)

ジョナサンは遠い伝説の人となり、ジョナサンの最後の弟子、フレッチャーが
ジョナサンが残した真理を後の世代に伝える役目を担っていた。

偉業とは、限られた一部の類まれなる天性によって達成されるわけではない。
誰もが持っている「学び、実践する」という行為を無限に繰り返すことによって達成される。

しかし偉業の目立つ功績のみに目が行ってしまうと、
偉業を成し遂げるために積み上げられた膨大な「努力」が見えなくなってしまう。
オリンピックの金メダリストたちも最初から特別な存在だったわけじゃない。
天賦の才、というものがあるとしてもそれは全体の1%程度で
残りの99%は努力なのだ。
もっとも、1%の天賦の才を持ち、99%の努力ができる人はそうそういないのだろうけど。


地味に努力を積み重ねることの大切さを忘れた若いカモメたち。
最初はジョナサンの伝説に尊敬の目を向けていたが、
やがては畏れる存在として遠ざけるようになっていった...

退屈な世の中に失望した若きカモメ・アンソニー。
彼はある日死を決意して海面めがけて急降下を試みる。
しかし、そのとき彼のそばを目にも留まらぬ速さで抜き去り再び急上昇して飛び去ってゆくものがあった。

そのものの正体とは...

作者がこの最終章を今の時代に発表する気になった気持がなんとなくわかった気がした。

繰り返すが、この世界の大半は地味な努力の積み重ねによって成り立っている。