夏休み二日目は滋賀。
MIHO MUSEUMに続いては琵琶湖湖畔に建つ佐川美術館へ。
2009年の初訪から9年ぶり二度目の訪問。
本美術館は画家・平山郁夫と彫刻家・佐藤忠良と陶芸家・樂吉左衞門の作品を展示するものですが、
今回は開館20週年記念の特別企画展として、田中一村展が開催されていました。
夏の青い空に大きな切妻屋根が美しく映える。
佐藤忠良の彫刻も青空に映える。
[帽子・夏(1972年)]
さて、目玉である田中一村展ですが...
1908年栃木県生まれ。
幼き頃より南画(水墨画)の分野で才能を発揮し、
7歳の頃には賞に入選するなど神童と呼ばれた。
東京美術学校に進学するも、病気ため中退。
同期にはあの東山魁夷もいた。
23歳時に南画と訣別、新しい画風の模索を開始する。
支援者からの賛同を得られないまま寡作の時代が続く。
30歳のときに千葉に移住。
以降20年間に渡り農村の風景、自然の景色、動植物の写生に明け暮れる。
39歳で「白い花」で画壇デビュー。
雅号をそれまでの「米邨」から「一村」へと改名する。
日展や院展などの画壇への挑戦を試みるも、ことごとく落選の憂き目に遭う。
50歳のときに住み慣れた千葉を引き払い、新天地・奄美大島へ渡る。
大島紬の染色工として生計を立てながら、69歳で亡くなるまでの19年間、
奄美の大自然の情景や色鮮やかな花鳥画を描き続けた。
生前の不遇、新天地を求めての南への移動から「日本のゴーギャン」と呼ばれたそうです。
自分としてはその画風を見る限りは「日本のルソー」のほうがしっくりくる気がする。
偏見であることは百も承知で言うけれど、
自分は生前に成功した画家よりも、生前は不遇に生き、死後に評価が上がる画家のほうが好きだ。
そういう画家はどこまでいっても恵まれない境遇にどこか絶望しながらも、
それでも諦めきれずに描き続ける。
純粋な向上心と同時に世界への鬱屈した想いが交互に塗り重ねられて、
どこまでも続く深みに、底知れぬエネルギーに魅せられるのだ。
なかなか面白かったので、図録を買いたかったのですが、
本展オリジナルの図録というものはなく、
高い作品集しかなかったので泣く泣く断念;;
続いて次の目的地、彦根城へ。
訪問日:2018年8月12日(日)午後
※本展はすでに終了しております。