ダヴィデ像【ミケランジェロ/ベルニーニ】

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Michelangelos_David.jpg
(出典:Wikipedia)

「『おまえは鉄の武器をもってやって来た。わたしは主の御名においてやってきたのだから、おまえは主にいどむことになるのだ。今日、主はおまえをわたしの手にあたえられる。そしてわたしはおまえをたおし、イスラエルには神がおられることを地上のすべてのものが知るのだ』少年だ。ゴリアトは面食らった。唇がちぢこまった。恥をかかされた巨大な戦士の、不明瞭なうなり声がサウルにきこえた。あらたにわきあがった怒りにつき動かされて巨人は前にすすんだ。坂をかけおり、ダビデにむかっていった。若者の胸の高さに槍をかまえていた。そして右手にもった剣をふりあげた。サウルは立ちすくみ、巨人と同じように言葉も出なかった。しかしダビデは歩みの速度を変えることはなかった。投石器を頭の上でまわしはじめ、革ひもが風をきる音がした。音をたててダビデは石をはなった。石はゴリアトの頭蓋骨めざしてとんでいった」(ウォルター・ワンゲリン『小説「聖書」旧約篇』)


「好きな絵」ならぬ「好きな彫刻」シリーズ。


二次元より三次元が好きだから。

本来なら絵画より彫刻のほうが好きなはずなのですが、
好きな絵画より好きな彫刻が少ないのは、
やはり三次元での表現が難しいからだろうか。


ミケランジェロのダビデ像。
今なおその美しさは輝きを失われない。
つまりはこの頃から人間の外形は変わらず、美意識もそんなに変わってない、
ということなのでしょうか。


静けさの中に燃えたぎる闘志。


ベルニーニのダビデ。


ミケランジェロが闘いの前の「静けさ」を表現しているのに対し、
今、まさに闘いがはじまったという「躍動感」。

ルネサンスの秩序と、バロックのダイナミズムとの対比がよく現れていると思います。


どちらかといえば、具象よりは抽象が好き。
しかし2つのダビデ像はこんなにも具象でありながら、
あらゆる人々に普遍的なメッセージを送っている。


しかしミケランジェロのダビデは世界一美しい裸体ではないだろうか。

闘いを前にしてなぜフルヌード?...という気もしなくはないけど、
フルヌードもここまで美化されれば、
大衆の面前にさらされても嫌悪感を抱かないものなんですね。
美化される、といっても素材が石である以外は
美化するための作為は感じられない自然な表現なんですけどね。
そこがまたこの作品が美しい所以なのでしょうか...


「真の美」を備えるものはその外形が具象であるか、抽象であるかなんて
そんなに関係ないのかも。


そして真の美は時を越えて不変なのだ。


ミケランジェロのダビデ像はフィレンツェのアカデミア美術館に、
ベルニーニのダビデ像はローマのボルゲーゼ美術館で見ることができます。

いつか本物を見に行きたい。