聖オルバン教会【アントニン・レーモンド】

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A4ギャラリーでアントニン・レーモンド展を見て、
バイト先のすぐそばに彼の設計した教会があることを知り、
昼休みに訪れてみました。


灯台下暗し。
外見に騙されるな。


外観ではお隣の聖アンデレ教会にすっかり心を奪われていました。


木造モダニズム万歳。


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デジ一で撮りたかったけど、あいにく携帯カメラしか持ち合わせてなく。


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...この外見に騙されたんだよなあ。
まだまだ勉強が足らない。


エントランス。
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...迷える子羊がまた一匹迷い込む。


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斜めに交差する梁が何とも不思議な空間を醸し出す。


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十字架ともマッチ。


祭壇側より後方(入口)を臨む。

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周囲も風流。

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ただいまレーモンドの著書「私と日本建築」を読書中。
小学生の作文のようなタイトルとは裏腹に、内容は深い。

日本人は永遠の本質を解し、物にいつまでも拘泥はしない。桜花は一日の栄華に生き、兵士の鑑となっている。また、世俗の脆さへの悟りが、永遠を尊ぶ心となる。...(中略)...日本人は長持ちのする塀は好まない。むしろ、整った竹垣のように、庭師をよんでは何度も修復を繰り返し、その仕事を見守るのを楽しみとする。美しい古い家は、尊敬に値しよう。が、人が水の清さを好み、花の鮮やかさを好むように、欠点のない純粋の新しさを好む。

なるほど。一理ある。
巨匠の言葉に異を唱える気は毛頭ないのだけれど。


が。

僕は思うのである。


桜の美は、いずれ散りゆく一瞬にではなく、
咲いては散る、という行為を延々と繰り返す永遠にあるのではないか、と。

心は見えないが、見える「物」に宿らない心などないのだ、と。
だから日本人は人一倍「物」にこだわるのではないか、と。
日本人にとっては人さえも「物」ではなかったか。
物に拘泥しないのは逆に西洋ではなかったか。

物に拘泥しないからこそ、
物をあんなにも画一的に、そして合理的に扱えたのである。


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