朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。

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人間は十歳で「けだもの」、二十歳で「狂人」、三十で「しぞこない」、四十で「ペテン師」、五十で「罪人」-ということがある。おそらく彼はついに禽獣たることをやめないが故に、罪人となるのであろう。われわれにとって真に在るものは飢餓だけなのだ、神聖なのはわれわれ自身の欲望だけなのだ。(岡倉天心『茶の本』)


...今、三十路の僕はなにを仕損なったのか。

かつて十代の僕は愛に飢え、
かつて二十代の僕は身体を鍛練することで「強くなること」に狂った。

そして三十路。
...たぶん僕は人生を仕損なったのだろう。

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。


...まだ僕は死ねない。

目の前に人の影ありて愛を知る。

しかし僕はまだ目の前にいる人の瞳を見ることができない。

瞳を見なければ、話をすることさえできないのに。

話をすれば、分かり合えるかもしれないのに。

分かり合えれば幸せになれると分かっているのに。

一人でいるより二人でいるほうが、
二人でいるより三人でいるほうが、
人の数だけ幸せは広がっていくと分かっているのに。


なにがそんなに恐いのか。