何かにつけて、行動にとりかかるまでに時間がかかるほうです。
疑い深く、慎重で、心配性で、さらに自信がない。
加えて出不精、面倒臭がりときている。
僕の歩みの遅さは筋金入りである。
それでいて、突然突拍子も無い決断をしたりする。
自分のした選択に一度足りとも後悔などしてないけれど、
周囲から見れば、自分が思っている以上に自分は信用をなくしているのかもしれない。
最近時々そう思うことがある。
それでも自分は自分が信じる道を進むしかない。
どんなにゆっくりとした歩みでも。
遊子川に来てから7ヶ月。
新しい環境に馴染むのに必死だった。
どう動けばいいのか分からず、悩む日々だった。
新しい流れについていくことで精一杯だった。
それでも、その気になれば取り掛かれなくはなかったはずだ。
忙しいからできなかったのではなく、
やはり生来の歩みの遅さがそこにあったのだろう。
日曜日。
とくに予定もなくて、前から行きたかったところへ出かけようと思ったら、
金欠で、ガス欠で、行けなかった。
仕方がないので家で読書してた。
それも飽きて、ボーッとしてた...
とりあえず手を動かそう、とふと思った。
木工で何を作るか、まだ妙案は浮かんでこないけれど。
とりあえず手を動かそう、と。
押入れから東京からもってきた美大の卒業制作時の残り部品を取り出してきて、
組み立ててみた。
大学で見つけた、僕の遺伝子を。
今回、あらためて作ってみたのだけど、つくづくこの形は「都会型」だな、と。
都会にいるからこそ、考えつく形だな、と。
この形のコンセプトは、「直線要素の集合体で曲面を表現する」です。
幾何学的な基礎から有機的な全体を表現する。
人間が無駄を削ぎ落として創りだしたものから、
再び人間の根源へ向かうものを作りたかった。
それが人間が求めるべき形だろう、と。
「幾何学図形の反復」は大量生産、マスプロを象徴するもの。
それは「人間らしさ」の排除であり、科学至上主義を反省する元となった。
しかし、人間は一度手に入れた便利さをそうやすやすと手放せない。
ならば、その「無機質の反復」を有機的なものへと昇華させるものを作り出せばいいじゃないか、と。
これは別に僕のオリジナルな考えではなく、
1960年代にすでに考えられていた「HPシェル」という造形哲学である。
フェリックス・キャンデラのHPシェル然り、丹下健三の東京カテドラル然り。
それがいつの間にか安藤忠雄に代表されるようなソリッドな造形が建築の主流になってしまった。
ミースの「レス・イズ・モア」が打ち克ったのである。
...スミマセン、デザインや建築に興味ない人にはチンプンカンですね。
とにかく、都会では幾何学なユニットが簡単に手に入る。
しかし、田舎はそうはいかない。
丸棒一つとっても、どうやって製材するの?...といった感じなのだから。
都会の哲学を田舎に無理やり持ち込む気はありません。
しかし、ここに流れる「本質」は汲み取りたい。
本質は基本的に環境に左右されないものである。
だから、これまで培った感覚から本質を汲み取りたいのである。
都会の感覚が優れているから田舎に持ち込みたいのではなく、
単に自分は都会に居たから、自分の経験から本質を汲み取りたいのである。
久々にちょっと手を動かしたくらいで、我ながらよくまあこれだけ語れるな。
言葉の量と行動の量が逆転してくれれば、
もっと足早な人生を送れたかもしれないのに。
しかし、これが僕である。
そしてこんな自分を最近はようやく好きになれてきた。
手を動かそう。
手を動かすために考えよう。
考えをまとめるためにことばを語ろう。
うん、これでいいのダ。
「愛なき人生は捨てるにふさわしいのだ」by バカボンのパパ
そう、僕はバカなのだ。
それでイイのだ。
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