おっちゃんが蕎麦の種を撒くので見に来いや、と言ってくれたので行ってきました。
正直蕎麦といえば、麺となって食卓に上った姿でしか見たことがありませんでした。
蕎麦がどのような過程で麺となってゆくのかはもちろん、
蕎麦という「植物」がどんな姿をしているのか、想像すらできませんでした。
自分の無知をさらけ出すようで恥ずかしいですが、
都会に住んでいる人たちの中には自分が口にしている食料が、
どのような原形から出来上がっているのか知らない人も少なくないのではないでしょうか。
食料はコンビニやスーパーでお金を払えばチン、と湧いて出てくる。
そんなイメージが人々の頭の中にある。
このイメージはとても危険だ。
一種の狂気とも言える。
都会では食料の大切さを忘れ、毎日大量の生ゴミが排出されている。
その一方で先進国の食料自給率はどんどん下がり、
食料を供給している発展途上国が食べものに飢えているという矛盾。
この矛盾に気づかず、人間は自分たちの暮らす環境を破壊し続ける。
人類とて、永遠に反映し続けるわけではないのだろうけど、
仮にこの狂気の中で生き続けることができたとして、
その生き方ははたして「幸せ」なのだろうか。
幸せを望む種だからこそ、食の大切さを認識したい。
グルメではなく、生の根幹としての食の知識を常識として持っていたい。
田舎に来て、この想いがより一層強くなりました。
蕎麦の種。
もちろん、はじめて見ます。
土を耕し、種を蒔く。
その姿はまさにミレーやゴッホの「種蒔く人」。
【ゴッホ『種蒔く人』(写真は大塚国際美術館の陶板画)】
こんな撒き方をするのは、もはや歴史の中でのお話だと思ってました。
東京で「種蒔く人」をはじめてみたときも良い絵だなとは思いましたが、
田舎に来て、より一層この絵の良さが分かるようになった気がします。
種を蒔く作業はすべての農業の「はじまり」である。
このはじまりがなければ、その後の「実り」もない。
小さな「はじまり」をどれだけ大切に思うか。
そこにその後の実りを左右するものがあるのではないでしょうか。
徒にスピードが求められる社会で、小さな「はじまり」をなおざりにして、大きな収穫を急ぐ。
それを全否定する気はないですが、どこかおかしい気がしてならない。
人類は小さな種からコツコツ世話をして時間をかけて実りを得る、という
自然のシステムを忘れて暴走してしまっていないか。
種をまいた後は耕耘機で種を土に練り込む。
ミレーやゴッホがこの時代に生きていたら、どのような絵になってたでしょうか。
畑のそばには川のせせらぎ。
のどかな一日。
蕎麦は種蒔き後はそれほど世話をすることもなく、
だいたい45日ほどで実がなるそうで、あまり手間がかからないみたいです。
その代わり収穫以後の処置がいろいろ大変みたいですが。
しかし自然は甘くない。
種を植えているときは刺すような日差しだった天候も、
夕方にはにわか大雨で、せっかく耕した畑があたかも田んぼのごとく。
はたして蕎麦たちは無事収穫を迎えることができるのでしょうか。
今後もちょくちょく様子を見ていきたいと思います。
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