共存愛

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ホッキョクグマの人工飼育の様子を取材したドキュメント番組の映像が
テレビの画面に流れていた。


こういう動物番組を見るたびに人間の身勝手さを思う。


飼育員と動物たちの間に愛は生まれるだろう。
同様にペットと飼い主の間にも愛は生まれるだろう。

しかしそれが動物たちにとって本当の幸せなのだろうか。
檻の中にいる姿は彼らの本当の姿なのだろうか。


愛というものは、
彼らの本来の生態を侵さなければ、得られないものなのだろうか。


幼少時以来、僕は動物園というものに行っていない。
そこは心を癒してくれるどころか、良心がチクチク痛む場所だから。

ホッキョクグマは本来ストレスに弱い動物なのだそうだ。
ホッキョクグマに限らず、生態系の頂点に立つ自然動物は、
外敵、天敵がいないため普段ストレスを感じることがないので、
ストレスに対する耐性がない、ということなのだろう。

本来住むべき場所でないところに無理矢理連れてくるだけでもストレスなのに、
頂点にいるはずの彼らの上に人間が立ち、狭い檻の中に閉じこめて行動を制約する。
ちょっと考えればこんな状況は彼らにとって悲劇であることは分かるはずなのに、
人間達は「愛」という言葉を使って自分たちに都合の良いように解釈する。


  「動物たちの姿が僕らを元気にしてくれる」
  「僕たち人間を元気にしてくれるんだから、彼らもきっと幸せなんだろう」


動物たちは別に人間に愛を与えたいなんて思っちゃいない。
人間が勝手に愛を感じているだけだ。
そんなの愛じゃない。


人間が人間社会以外の社会で人間になることができないように、
ホッキョクグマもホッキョクグマの社会でしかホッキョクグマになることはできない。
北極圏にいないホッキョクグマはもはやホッキョクグマではない。
ホッキョクグマの遺伝子をもった動物が、
ホッキョクグマになれないことほど不幸なことはない。

それでも動物園というものは必要なのだろうか。
動物園という場所がなければ愛は得られないだろうか。

デジタル化により至るところにヴァーチャル世界が溢れる社会でありながら、
人間は妙なところでリアリティを求める。
動物園のような場所こそ、ヴァーチャル化してしまえばいいのに。
知識としてだけならそれで十分だろうに。


共存とは彼らを人間社会に引き入れることではない。
お互いの社会を尊重し、必要以上に干渉しないことだ。

それが本当の愛、というものではないだろうか。


赤ちゃんグマを見て「カワイイ~」と思う前に、
ストレスのためにけいれんを起こすホッキョクグマの姿を見て、
心を痛める気持ちをもつことこそが愛ではないだろうか。

そして動物園という牢獄から彼らは解放されるべきではないだろうか。