僕には友達が少ない。
以前はそれを自分の人望の薄さだと、コンプレックスに思っていた。
でも最近になって思うのは、
友達が少ない、という選択をしているのは自分自身ではないか、ということ。
自分自身が友を得ようとしていないから、友がいないのだ。
なぜだろう?
デジハリ時代の友人が久しぶりに電話してきた。
特に用があったわけじゃなく、なんとなく久しぶりに声が聞きたくなったのだとか。
...その友の声が僕の背中を押してくれた。
この歳まで生きてきて、
僕の前に友は幾度となく現れては消えていった。
自分からはめったに友達に連絡しない。
向こうから連絡が来るのを待っている。
いつから僕は友を待つようになったのだろう。
そんな僕の消極性が、相手に友情を疑問視させ、
そしてやがては消えていったのだろうか。
いつか消えゆく友情への恐れ。
その臆病ゆえの「恐れ」が僕を消極的にし、「恐れ」を現実化する。
プータロー大学生の生活もいよいよ厳しくなっきて、
働かざるを得ない状況になってきた。
ネットで求職情報を探すも、最後の応募ボタンに手が出ない。
堕落に浸り切っているせいもある。
しかし一番の原因は、全く経験のない分野への仕事に「恐れ」を抱いているせいだ。
休息の日々は終わり、そろそろあたらし一歩を踏み出したいのに踏み出せない。
...そんな悶々としたジレンマで過ごしているとき、
かつての友からの着信。
出会った頃、彼女は大失恋をして、飲み屋で愚痴を聞いてやったりした。
そんな彼女も今や一児の母。
すっかり追い越されてしまった。
友を大切にしないこんな僕でも、見捨てないで電話してきてくれる友がいる。
時のブランクを微塵にも感じさせず、当時と同じように楽しく話せた。
電話を切ってしばらく迷った後、
新しいバイトの応募ボタンを僕は押すことができた。
人はエゴの壁から一生出ることはできない。
しかし人はエゴの外からパワーを受け取ることはできる。
そのパワーを受け取るために必要なのが「信じる」という行為なのではないだろうか。
...もっと人を信じよう。
友を大切にしよう。
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