500円の価値

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久々に友達が家に遊びに来ました。
大学の同級生3人。

最初は一人が来る予定だったのが、二人、三人と増えたので
まあ鍋でもやろうかと。
気付けば今年初の鍋。

大学の同級生、といっても僕以外は二十歳そこそこの若者ばかり。
僕も含めてボンビーメンばかりなので、肉類は二パック880円の鶏肉のみで
あとは野菜ばかり、というあっさり鍋。

食欲旺盛な育ち盛り(若干1名は違いますが^^;)の男4人で
これで足りるかな...と思っていたのですが、
食べ終わってみると閉めのうどんまで食べれておなかが苦しいくらいの大満足。
そしてこれで一人頭500円。

たぶん人生最安の鍋だと思う。
でもそれなりに満足のいく鍋だった。


松屋で一人で牛丼を食べる500円と4人で楽しく食べる鍋の500円。
同じ500円でもその価値は全然違ってくる。

人生や物の価値、って金銭価格で決まるものじゃないんだね。

価値ってなんだろう。

人はだいたい価値あるものにしか興味を示さない。
たぶんそれは得るものがないものに無駄なエネルギーを費やすべきではない、
という保護本能によるものなのかもしれない。

でも社会に生きる僕らにとって「価値」の定義は複雑なものになっている。
価値のあるなしがすぐに簡単に決められないケースが多々ある。
可能性としては無駄に終わることもあるわけで、
当然そんな時も保護本能は働いてしまう。

「人がやらないこと」の価値のあるなしは未知の領域。
だから人のやらないことをやるのはとても勇気がいる。

しかし安全な社会に生きていると保護本能って鈍りがちで、
中には人がやらないことをためらうことなく、躊躇なくやれる人もいる。
でもその場合、人がやらないことをやれたからといって、
その人は価値というものが本当に分かったのだろうか。


価値あるものを理解するためには価値のないものも理解せねばならない。
だからやっぱり誰もやらないことをやるのは結果がどちらに転ぼうとも、
すごく意味があることだと思う。


昔は勇気だけが必要で、臆病心は無用なものだと思ってた。

でもやっぱり。
勇気と同時に臆病な心も大切なものだと思う。
攻めるだけではダメで守りも大事なんだと思う。

勇気と臆病の割合が人の個性、というものだろうし、
勇気がゼロなら、なにもすることはできいないし、
臆病がゼロでも、なにをしてもその価値を感じることはできない。

臆病を感じるとき、それはなぜなのか、どうしたら克服できるのか。
それを考えることで勇気が生まれる。
勇気を自覚することでものや行為の価値が理解できる。


臆病であることを恥じることはない。
保守的であることを恥じることはない。
それは人間であることの証拠だ。

そしてそれらを克服して勇気を出すこと、進歩的になること。
「より良い」人間になろうとすること。
そこに価値、というものの存在意義があるんだろう。