罪を背負って生きる人

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またしばらく昼夜逆転の日々が続いてます。

慣れとは恐ろしいもので、最初はそんな生活をしてしまうことに自己嫌悪をいだいていたものが、
いつの間にかなんでもないことのような感覚になってしまう。
環境に適応するための本能がときに人間を堕落させる源になることもある。

一見理路整然としているようで、実に摩訶不思議なこの世界。


そんな夜更けに突然東野圭吾の『手紙』を読み返しました。
殺人犯の兄を持つ弟が辿る苦悩の人生に、僕等はなにを見るのだろう...

僕の知る限り、僕の家族に、僕の友人に、僕の周囲に犯罪者はいない。
ただ、この物語には自分の世界と重ね合わさる部分が多分にあると感じます。


法は犯していなくても罪とされるものがこの世界にはある。
タブー、つまり非道徳と表現されるものも罪と呼ぶならば、人は誰しも罪を背負って生きている。

子供を捨てた親。
そんな親を子供は恨み、軽蔑する。
子供はその行為を至極当然の、自分に与えられた権利だと思う。
もちろんどんな人間でもどんな感情を抱こうがそれはその人の自由だから
子供がどう思おうと、そしてそんな子供に対して他人があれやこれや言うのも、
やはりそれは基本的には自由なのです。
メディアを使って、必要以上にその人の人権を侵害しない限りは。

でもやがて子供は気づくわけです。
親を恨み、軽蔑するその行為が自分の首を絞めているのだと。

親を軽蔑することは自分を軽蔑することだ。自分のエゴを軽蔑することだ。
人は自分のエゴを通してでしか、外の世界を眺めることはできない。
自らを醜く歪めたフィルタを通して眺める世界で、はたして美しいものが見つかるだろうか。
...見つかるわけがない。


だから親は子供にとって尊敬できる存在であるべきなのです。
子供は親を信じたい。
親を信じることのできない子供ほど不幸なものはない。


親が子にした仕打ちを、子になんのメッセージも発してこなかった仕打ちを
親は悔いている、と信じたい。
親を恨み、軽蔑した二十代を恥じ、その感情を捨てる代わりに。

そう思う一方でもしそうじゃなかったら、と思う恐怖。


なにも見えないことほど不安なものはない。
なにもしない、ということは一種の罪だと僕は思う。
人は一人では生きられないのだから、
人は自分がなにができるのか、なにをしたいのか、を伝えなければならない。
分からなければ分からないことを伝え続けなければならないのです。

自分のすることが他人に対して良い影響を与えるのか、悪い影響を与えるのかは
やってみなけりゃ分からない。
やってみて、多くの人に悪い影響を与えたならば、この次からは別の手段を考えればよい。
そうやって人は成長していくのでしょう。

失敗を恐れるな、とはよく言うけれど、失敗を失敗のままなにもしないのは罪だ。
成功したなら次はより大きな成功を、
失敗したなら次は失敗しない方法を、
何かしら実践し続けなければならない。それが「生きる」ってことだと思う。


でも誰しもそう簡単に失敗を成功に変えることはできない。
だから人は罪を背負い続けて生きている。
そして生を全うし終えるときにはじめて、その罪を降ろすことができるのでしょう。
だから多くの宗教では死者を聖者として奉るのです。


人は誰しも罪を背負って生きている。