作家宣言

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言葉では言い表せない驚異と神秘の構図に、医師は息を呑んだ。理解できず、分析もできない感情が体中に満ちてきた。畏れと喜びー天地創造の場に立ち会った者の畏れと喜びか。官能的で、情熱的で、途方もない・・・だが、同時に、身の毛のよだつ何か、人を恐怖のどん底に叩き込む何かがある。これを描いたのは誰だ。自然がひた隠しに隠していた深みにまで潜り込み、そこに守られていた美しくも残忍な秘密を掘り出してきた男が描いた。人に知られること自体が不浄である秘密ーそれを知った男が描いた。ここには原始の気配、畏れ入るべき何かがある。(モーム『月と六ペンス』P380)


何か新しいものに出会うとき、
希望と喜びを持って無条件に全面的に受け入れることができれば、
これほど人間として幸運なことはない。
人生とは、新しいものとの出会いの連続なのだから。


しかし、それは時として「ヒト」として生きていくには致命的な欠陥となる。
外に出れば七人の敵がいる。
エゴの外にあっては、同じ種同士でさえ、敵になることがある。
「警戒心」は自分の身を守るための本能である。
人間は文明人である前に、「ヒト」であることを忘れてはならない。

信心が善であり、疑心が悪である、とは限らない。
疑心が科学を育み、信心が宗教を育んだ。
いわばこれら二つは人類の父と母である。


人間がするべき唯一の「闘い」とは、
本能からくる疑心と、理性による信心との闘いだけだと思う。
どちらをないがしろにしても、真に人間らしく生きることはできない。


創造とは、自分の内にあるものと、外にあるものとの闘いである。
疑心なくして安易に逃げ込む信心は弱い。
果てしのない疑心の果てに芽生える信心こそ、真の信心である。

そのような真の信心が強い人間を育てる。


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昔からリアクションの薄い人間だったように思う。
何か新しいものに出会うとき、どこか冷めていて、
まず良いところよりも悪いところを見つけてしまい、
批判的になってしまう自分の性格が昔から嫌いだった。

そんな自分でも「面白い」「感動した」といったことは、
人並みに経験してきたつもりだけれど、
「我を忘れる」といったことはほとんどなかったように思う。
あったような気もするけれど、記憶にほとんど残っていない。

当時はそんな自分を「鈍い」のかな、と漠然と思っていた。

一方で、記憶に残るような強烈な感動を求めている自分にも気づきはじめた。
強烈な感動であれば、もっと心の奥底に記憶として刻み込まれるはずだと。
そのような記憶が自分を突き動かすエネルギーになるんじゃないか、と。
美大に入って、美術館やギャラリー、美しい建築や庭園などを
巡り歩くようになったのも、そういう感動を求めてのことだと思う。

たくさんの「良いもの」に出会えたけど、
なかなか「我を忘れる」ほどの経験には出会えない。
そのうち、自分の外にあるものがそういう感動を与えてくれないのであれば、
自分自身で創り出していくしかないのかな、と思うようになった。

感動への渇望。
...それが僕の「もの作り」への想いへの原点だと思う。


頭の中でイメージをまとめる作業は孤独で辛い作業である。
しかしその段階を乗り越えて、頭の中でイメージを固めて
手を動かしはじめると、無心になれる。
それは決して心を奮わすほどのものではないけど、
静かに我を忘れることができる。

出来上がったものについては、
まだまだキャリアが浅いために満足がいくことはないけれど、
すごく愛着が湧く。
これがものを大切にする心だと。


4年間美大でデザインを学んできたけれど。
ぶっちゃけ自分がやりたいのはデザインではない気がする。
デザインという作業は今後もしていくだろうけど、
デザイナーになりたい、というわけじゃない。
このブログもデザインブログといいながら、
最近ではアートについて語っていることの方が多い気がする。


デザインは他者と他者、あるいは他者と社会との関係を考える。
対するアートは自分と他者、あるいは自分と社会との関係を考える。
デザインかアートか、といったら僕はアートのほうに興味がある。
アートとしての建築に興味がある。

とはいっても、何かと厳しいこのご時世、
いきなりそれを稼ぐ手段にできるわけもなく。

まだまだ学ぶこと、経験すべきことは多く、道のりは長い。

しかし、卒業後どんな道を選択するにしても、
今後も何らかの形で自己表現していく決意は変わらない。

その決意を卒業制作作品展示で見ていただければ、と思います。