アクリル・フィン6【所感】

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大学が春休みに入りました。


春休み、夏休み、冬休み。
トータルすると1年間のうち3ヶ月以上が休み。

自分で学費を払っていると、正直こうした休みも惜しい。
授業はなくとも、せめて自主的に利用できるよう休みの間も
学校を開放して欲しいものです。

根がぐうたらなので家にいるとさまざまな誘惑に負けてしまう。
さらに引きこもり大好き人間だからなおさらぐうたらしてしまう。
大学という場所はまさにこういうぐうたら人間を更正してくれる、
最適の場所なんだけどな。


...とまあさっそく家でぐうたらしているわけですが。


見たい展示がたまってる。
卒業シーズンで卒制展も目白押しの季節。

嬉しいことにしなきゃいけない仕事もそれなりに。


ぐうたらしてるヒマはない。

が。

...その前にこれまでの学校生活をいささか振り返るのも必要かと。

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最後の課題で作ったアクリル・フィン。

概ね好評で、閉じた二次元の面要素から、開いた三次元の立体へ
展開する様が面白い、って言ってくれます。

が、一方で建築をある程度知っている人からは、
「カラトラバみたいだね」とも言われる。

自分としては強くこの建築家を意識してこの造形を思いついたわけではなく、
あくまで三次元スケッチの過程で偶然生まれたものなのですが、
僕がカラトラバが大好きで、無意識に彼の影響を受けていることは間違いない。

ただ模倣するのではなく、
自分の本質を追究していく過程で自然に共鳴していく。
無から有を生み出せる人などいない。
新しきものは過去を参照することで生まれる。

だから僕はこの自分の作品を胸を張って自分のオリジナルだと言うことができる。


カラトラバの作品の中でアクリル・フィンに似ているなあと思うもの。


スイスのハイスクールのエントランスゲート。


リヨン空港駅。


WTC跡地付近の駅。


バレンシアの芸術都市。


本質的に良いものは環境が変わってもその本質を失わずに
状況に対応していける。
だから僕はデザインにおいても作家の個性は重要だと思う。

クライアントの要求を満足させることだけでは良いデザインは出来ないと思う。
作家の作る行為に対して金銭で報酬を得るのみ、というのも違う気がする。
作家の個性を社会が認知してこそ、
作家と社会との間に真に良い関係が築ける。


休み前の最終日は大掃除。
自分たちが使用していた教室をキレイにするわけですが。

だいたいみんな教室やロッカーに自分の作品や資料、道具類を放置していて、
こういう大掃除でばたばたするときになってあわてて整理しようとする。


...僕にはその光景が奇妙に思えてならない。


デザインとは良い関係性を見出すことだと思う。
秩序を見出すことだと思う。

中には無秩序を無秩序だと認識させるためのものもあるかもしれないけど、
その場合でも秩序は必要だと思う。
人は無秩序を受け付けないし、認識も出来ない。

無秩序の中から秩序を見出していくこと。
それが「整理」ということではないだろうか。

よく「作るのは好きだけど片付けるのは苦手」というような意見を耳にする。
でも整理整頓が出来なくて、はたして良いものが本当に作れるのだろうか。
たとえ作れたとしても、それは偶然だったり、手先の器用さによるもので、
はたしてそうやって生まれてきたものを「良いもの」と言えるのだろうか。

偶然は期せずして出会うからその価値がある。
偶然は作り出せない。ただ出会うだけ。


だから「整理する」という行為は、「作る」という行為の中に含まれている気がする。


しかし一方では常に整理整頓しておく、というのも
なんかつまらない気がするわけで。
というか、常に整理整頓していれば、掃除という行為も必要もないわけで。

ある程度混沌な状態を展開した上で、ある時期に一気に整理する。
これを自分のリズムで繰り返していくことが理想じゃないだろうか。


よく部屋にはなにも置かないのが信条、という人がいる。
一見シンプルな格好良さ、というイメージを受けるけど、
「良いもの」が本質を代弁するものだと考えると、
逆に中身が空っぽでダサい気がしてくる。

世の中に良いものはたくさんある。
歳を重ねてゆくごとにそういうものを集めて自分の近くに秩序立てて配置していく。
それはとても幸せなことではないだろうか。


どんなに良いものを作っても、
その作品を大切に扱わない人間を僕はクリエイターとして信用しない。

自分の作る作品や扱う道具を大切にしていれば、
大掃除の時に困ることなんかないはず。


誰だってわけの分からないものを「心地よい」とは思わないはずだ。


故きを温めて新しきを知る。
余分なものを削ぎ落としてゆくことで人は本質を知る。


掃除の出来ない人間はよいデザイナーになれない。

...これって極論ですか?