CHAPTER27

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大学のレポート課題で2008年のお正月映画(12月、1月に公開する映画)の
映画評を書くことになって。

観にいってきました。
ジョン・レノンを撃った男の物語。
ジョンを撃ったチャップマンはおろか、ジョン自身のことも一般常識程度しか
なかったのでこの映画を観る前に六本木ヴァージンシネマで上映されている
PEADE BED」を観てきました。


そして渋谷のシネクイントで上映されている本作を鑑賞。
シネクイントはパルコ3の最上階にあるシネマですが、
けっこうな座席数の割にはスクリーンが小さい。
天井が低い。
いかにも別用途の場所を急遽シネマにしたような、そんな感じ。


獄中のチャップマンに実際にインタビューした内容に基づいて
製作された映画だそうです。

物語はあまり抑揚がなく淡々と進みます。

チャップマンはなぜジョンを撃ったのか。

PEAD BEDをみて、ジョンが政治的に敵が多いということは分かった。
政治活動家などに殺される可能性はあったかもしれない。
しかし実際にジョンを撃った男はただの熱烈なファンだった...
そこにジョン・レノン殺害の最大の謎があるのでしょう。

どれだけ本人に綿密にインタビューしたとしても。
チャップマンがなぜジョンを撃ったのか。
それはチャップマン自身にしか分からない。
言葉で伝えられることには限りがある。
ひょっとしたらチャップマン自身も分からないのかもしれない。

映画でもチャップマンの行動を忠実に再現はしているけれど、
「なぜ殺したか」という核心部分は明確にはされていません。
映画を観る人それぞれの想像に任せよう、というのが監督の意志なのでしょう。


登場人物はそれほど多くない。
主人公のチャップマンの他にキーとなるサブキャラは
ジョンのファンの女の子ジュードと、パパラッチカメラマンのポールだけ。


全編を通して感じるこのはチャップマンのねっとりとまとわりつくような話し方、息遣い。
込みあがってくる言いようのない不快感。
それがチャップマンの放つ狂気なのか。

世界の平和を訴えた男を撃った男に同情する人はいない。
平和活動をする一方でセントラルパークすぐそばの豪邸で、
贅沢に暮らしていることに矛盾を感じたとしても。
実際にジョンが贅沢な暮らしをしていたかどうかは知らない。
有名すぎる人間はそういう生活をせざるを得なかったのかもしれない。

それでもジョンがファンに殺される理由はどこにもない。


ジョンを撃ったとき、チャップマンが拳銃の他に
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を手にしていたのは有名な話。
僕も村上春樹訳のものを読んだけど、
あの本に影響を受けたからといってなぜジョンを殺そうとするのか、
その心理はやはり分からない。

たしかに主人公ホールデンは厭世的だけど。
それなりに得られるものもあった。
とくにラストの妹フィービーとのやり取りは暖かみを感じたほど。


結局のところチャップマンの心の弱さが狂気の入る余地を与えたのか。
ファンという意味ではチャップマンもジュードと同じ「善良な」ファンだった。
結婚生活がうまくいかず、憧れのジョンにもなかなか遭えない。
そこに狂気の声が入り込んだ。
狂気とは心の弱さであって、けして格別珍しくないものなのかもしれない。

僕にはあまり他人にのめり込む、という感覚が分からない。
好きなミュージシャンやアーティスト、デザイナーはたくさんいるけれど
「心酔」はおろか、「傾倒」だってめったにしない。
ファン心理というのはとどのつまりエゴの麻痺、エゴの逸脱なんだろうけど
はたしてそれが良いことなのか、幸せなことなのかというと僕は懐疑的です。

外からの適度の刺激は重要だ。
しかしそれは自らを成長させるためであって、
ただ感覚的に充足することが最終目標ではないはずだ。
エゴが成長していることを自覚するのが最終目標のはず。

こういう考え方をする人間ってつまらないんだろうか。
たまには「我を忘れる」ほどの刺激も必要なのだろうか。
どんなに考えても理性で制御するものじゃないけれど。
(制御できたら「我を忘れる」じゃなくなるもんね...)


エゴの逸脱は狂気を呼ぶし、エゴの強い抑制は退屈な人生となる。
ハッピーな人生を送るにはエゴの意識の仕方にもバランスが必要なのかも。
神様もなかなかコントロールの難しいものを人間に与えたもんだね。


タイトルの「チャプター27」の意味が最初分からなかった。
家に帰って「ライ麦畑でつかまえて」を見ると26章で終わってました。
つまりはこの映画はホールデンのその後の第27章、ということか。
さらに。
映画が公開される2007年はジョンが撃たれた1980年から実に27年後。


チャップマンが綴った第27章。
そこに僕らはなにを見出すのだろう。