建築と都市―デザインおぼえがき【丹下健三】

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夏休みも終わりぎりぎり。

丹下氏の「建築と都市」をやっと読み終えました。


人間と建築」と対になる本で、
「人間と建築」がヒューマン・スケールで建築を語るものだとすれば、
「建築と都市」はスーパー・ヒューマン・スケール、もしくは
マス・ヒューマン・スケールで建築を語るもの。

原初の頃においては歩幅が行動範囲の規範となっていたものが、
電気エネルギーをコントロールする術を覚えたことで
人間は数関数的にその行動限界を拡大した。

遠くへ移動する術は覚えたけれど、
原初以来の生活感覚はなかなかすぐには対応できない。
スーパー・ヒューマン・スケールでの適正な感覚の欠如が
現在の都市の問題となっている...


拙い読解力で分析すると、
丹下氏が指摘する都市問題の原因とはこのようなものではないかと。


そして「東京1960」からおよそ50年。

増える一方の凶悪犯罪、心を病む人たち、失われる自然。


...都市ってたいして進化していない気がするのは僕だけだろうか。



[丹下健三「東京1960」]

現実のなかには、私的=経済的立場と、公共的=社会的立場とが抵抗しあいながら交錯している。建築について考えるときにも、内部機能と外部機能とでも呼びたいものを認めないわけにはゆかない。そうして内部機能のなかに私的なもの、あるいは私企業的立場から求められる機能を考えて、外部機能を社会的立場から求められる機能と考え、こうした概念をつかいたいと思う。私たちが、いままで「建築には都市計画の立場が内在しなければならない」といっていっていた意味は、この二つの立場の統一をいっていたのである。~(中略)~しかしピロティやコロネードは、内部機能と外部機能とをつなぐものとして意味をもっているのである。それらは機能要素を構造的に関連づける構造概念であって、機能概念として捉えることのできないものであるともいえるだろう。~(中略)~このように私たちは、社会的連帯感を強調する建築的空間を社会的空間とよびたい。それを建築に定着する手段として、尺度としての社会性が考えられる。それを私たちは、人間的尺度に対応して、社会的尺度とよびたいと思う。過去の歴史の中にも人間を越えた神の尺度があった。それは人びとの共感と感動の尺度でもあった。このように人間的尺度と社会的尺度の相互浸透は、建築にも一個の生命を与え、そうして、そこから社会的共感と感動を生みだすであろう。(Ⅰ内部機能と外部機能-1.私的空間と社会的空間)

建築は内包する空間が大事だという。
それは確かに正しい。

しかしだからといって空間が大事だからそれを包む外皮(外観)はどうでも良い、
ということにはならないと思う。

私的な住宅にせよ、公共建築にせよ、
外皮は基本的に社会に対してオープンなものである。
そして外皮には内部空間の持つ機能をイメージとして伝える、
という機能を持つべきである。

写真写りの良い外観を作ることはけして本質的ではないけれど、
そこを訪れる人にまず外観で感動や共感を与えることは
建築の必須機能ではないだろうか。


都心の概念を否定して都市軸という新しい概念を導入する-まずその求心型の閉じた自己完結的なパターンを、線型平行射状の開いた成長可能なパターンに変えてゆくことです。~(中略)~いま都心は、あがきがとれなくてどんどん周辺に膨張しようとしています。いわゆる膨張のエネルギーをもっているわけです。ところが無軌道なエネルギーの発散の形をとっています。しかも東京の交通システムは、全部そこに向かって求心的な配置をとっており、都心は理論的には点でしか成り立たないような形をしています。いわゆる都心ですが、その点は1,000万を越えたような都市の機能の中心としては、空間的にも、あるいはメカニズム的にも成り立たないものです。私は、ここで、都心という考え方をよして、都市軸という考え方を提案したいと思います。そうして、都市の動脈と中枢神経系を、ここに設定してみたわけです。(Ⅳ東京計画-一九六〇-1.都市軸)

東京1960計画では東海道と常磐道を東京湾状に建設される巨大人工島を介して
接続し、マクロな交通幹線を都心から外し、交通の一極集中を回避する。
交通機能を南北に長いベルトに分散させると同時に東西に公園や緑地などを
展開させた「緑の都市軸」を展開、
この2本の都市軸により東京を分散発展型の都市にする。

東京湾状の巨大人工島の是非はともかく、分散化は必要ですよね。
安藤忠雄氏の海の森プロジェクトも同じような考え方なのかな。


現代の文明社会、そしてその活動中枢としての1,000万都市。その都市空間は、新しい技術がもたらしたスピードとスケールによって、その秩序を攪乱されつつあります。中世の広場、そこに建つ教会あるいは市庁舎、それらはそこに集まる群衆にふさわしい規模のものでした。そしてそれを中心とした放射状にのびてゆく街並みのヒューマン・スケールは諧調のある統一をもった、都市空間の秩序ある序列を構成していました。しかし現在、そうした市街に、巨大なスケールをもち、高速なスピードをもってそこを走るハイウェイが突入してきました。人間性を越えた規模、スーパー・スケールといってもよいようなこれらのスケールは、19世紀あるいは20世紀前半に建った建築のもつ人間らしい尺度-ヒューマン・スケール-と、なんらの調和も秩序をもっていません。~(中略)~この二の極-よりメジャー(巨大)なもの、つまり個人の自由選択を規制し長期にわたって時代のシステムをきめてゆく構造、そしてよりマイナー(小さい)なもの、個人の自発性にもとづく自由を許し短い周期で変化してゆくもの-のあいだの断絶はますます深まってゆくでしょう。しかし別の見方をすれば、また巨大な空間とそのスケールは技術の進歩とともに変身し続けるものといえましょう。逆に短い周期で変化し新陳代謝してゆくようなマイナーな物質や用具はつねに変わることのない人間的スケールによって支配されているともいえます。この二つの極-長期に耐えるメジャーなものと、短期の周期で変化するマイナーなもの、しかしつねに変身してゆくメジャーなスケールと永久に変わることのないマイナーなもののもつ人間的スケール-を有機的に関連づけ、都市空間の新しい秩序を探求してゆくことは、現在、重要な課題となっています。(Ⅵ現代都市と人間性-現代都市における人間性豊かな空間秩序の回復)


ヒューマン・スケール。
ミクロ的には常に変わり続けているけれど、マクロ的には常に変わらないもの。

スーパー・ヒューマン・スケール。
ミクロ的には一見変わらないようだけれど、マクロ的には常に変わってゆくもの。

都市ではこの2つのスケールが大きく、頻繁に、敏感に、同時に交わる。
この「矛盾」を理解し、受け入れ、大作を考えていくことが
都市計画を成功させる鍵なのだろうか。

本質的な矛盾、って解決するのが難しい。
だから都市問題は今なお、未解決のままなのではないだろうか。

それでも人は都市計画に挑み続けなければ。
桃源郷を夢見続けなければ。


2011年に復刻版が出ているようです。

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