オセロー【シェイクスピア】

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シェイクスピア四大悲劇の一つ、「オセロー」を読みました。

ムーア人の勇敢な将軍オセロー。
副官に任命されなかったことを不満とする旗手イアーゴーの奸計により破滅への道を歩んでゆく。

本劇のテーマは「嫉妬・猜疑心」。
一般的に忌み嫌われる感情だが、全く無くて良い感情かといえばそうではないと思う。

他人を嫉み、羨むからこそ、自分を奮起させることができるし、
疑いの心が危険から身を守り、問題点を発見し改善することができる。
生きていく上で必要不可欠な感情ではあるが、
一度その感情に支配されてしまうと、これほどやっかいなものもない。


ちなみにボードゲーム「オセロ」は本劇が名前の由来なのだとか。
黒人のオセローとその妻・白人のデズデモーナ、
イアーゴーの状況によってころころ態度を豹変させる様からとったのでしょうか。


以下心に残った名言たち。

愛娘デズデモーナをオセローに奪われて嘆くブラバンショーを慰めるヴェニス公の言。

万策尽くれば、悲しみも終わる、事態の最悪なるを知れば、もはや悲しみはいかなる夢をも育み得ざればなり。過ぎ去りし禍いをを嘆くは、新しき禍いを招く最上の方法なり。運命の抗しがたく、吾より奪わんとするとき、忍耐をもって対せば、その害もやがては空に帰せん。盗まれて微笑する者は盗賊より盗む者なり、益なき悲しみに身を委ねる者はおのれを盗む者なり。(第一幕第三場)

どん底を味わえば、それより悪くなることはないんだから、
あとに残るのは希望のみ。
だからどん底もあながち悪いことじゃない。
...そう思える思考回路が大事なんだ。


イアーゴーがロダリーゴーをそそのかした時の台詞。

人間、ああなるのも、こうなるのも、万事おのれ次第だ。おれたちの体が庭なら、さしずめ意思が庭師というところさ、となれば、...(中略)...万事あれやこれやと事を運ぶ力も役目も、みんなおれたちの意思にあるのだ。人生は天秤同様、一方に理性の皿があって、こいつがいつも本能の皿と釣合いを保っていてくれないことには、おれたちはたちまち劣情の虜となり、目もあてられぬ最期をとげようというものさ。さいわい、おれたちにはその理性というものがあるので、情欲のあらしも、肉のそそのかしも、はたまた跳ねあがる助平根性にしても、精々冷やしてやることができるのだ。思うにきみの言う愛というやつも、そんな欲望の一種、つまりその新芽に過ぎない。(第一幕第三場)

言ってることはなかなか正論じゃないか。
オセローは感情が、イアーゴーは理性が重すぎて天秤のバランスを崩した。
感情に溺れすぎても良くないが、理性に溺れすぎるのも危険だ。


イアーゴーが現在の副官キャシオーをそそのかした時の台詞。

体面などというやつは、およそ取るにたらぬ、うわつらだけの被せものに過ぎない。それだけの値うちがなくても、手に入るときは手に入るし、身に覚えがなくとも、失うときには失うように出来ているのだ。第一、その体面にしても、少しも失われてなどいないではないか、自分から先に立って、それを無くしましたと触れて歩こうというなら別の話だがね。(第二幕第三場)

体面は確かに大事なものかもしれないが、その場しのぎの一時的な正論に過ぎない。
これだけ本質を理解しているのに、彼は暴走した。
理論が絶対存在ではないことの証拠。
時には第六感でなにが正しいかを感じようとすることもしなければ。


これもイアーゴーがロダリーゴーをそそのかす時の台詞。

忍耐を知らぬ者は貧しきなりか!およそ傷と名のつくもので、すぐ癒るものがあるか?いいかね、おれたちの頼りにすべきは自然の理法だ、決して魔法ではない。しかして自然の理法は遅々たる時の流れに基づくものだ。(第二幕第三場)

世の中を動かしているのはいつだって遅々とした時間の流れだ。
その重圧と退屈さに我慢が出来ず、人は本質的ではない魔法を求めてしまう。


イアーゴーがオセローの心に生じた小さな猜疑心の炎を燃えあがらせるべく、たたみかける。

男女の別を問わず、名誉というやつは、もうそれだけで何物にも代えがたい宝物と申せましょう。これが財布のようなものでしたら、盗まれたところで、それだけの話ー大事と言えば大事かもしれませぬが、小事といえば小事に過ぎない。私の所有だったものが、今はそいつの所有に帰したというだけのことでして、所詮、金は天下の廻り持ちでございます。しかし、これが名誉となると、それを私から盗み取ったからといって、相手には一文の得にもならないくせに、この私には大損ということになります。(第三幕第三場)

名誉は持ち回せないからこそ、尊いのだが、
猜疑心に支配されつつある男にはそれが見えなくなっている。


将軍、恐ろしいのは嫉妬です。それは目なじりを緑の炎に燃えあがらせた怪獣だ、人の心を餌食とし、それを苦しめ弄ぶのです。たとえ妻を寝とられても、すべてを運命と諦め、裏切った女に未練を残さぬ男は、むしろ仕合せというべきでしょう。しかし、これほど辛いことはありますまい、愛して、なお信じえず、疑って、しかも愛着する、そういう日々を一刻一刻かぞえながら生きねばならぬとしたら!...(中略)...貧に足る者は富める者、むしろ大いに富んでいると申せましょう。一方、限りなき富を有しながら、貧寒なること冬枯れのごとき者もある、絶えず貧への転落におびえているからです。人間、出来ることなら、嫉妬からだけは免れていたいものです!(第三幕第三場)

嫉妬の本質をつきながら、嫉妬に取り憑かれ、周囲を見えなくさせてゆく大胆さ。
その使い道さえ誤らねば、イアーゴーは一旗手に終わらぬ器であったものを。


このおれが日夜嫉妬に苦しめられて暮すようになるというのか、月の満ち干につられて、疑いの雲をつのらせるおれと思うのか?馬鹿な、一度、疑いが起れば、たちどころにそれを解いて見せよう。臆病者の山羊ではあるまいし、このおれが、貴様の言う、そんな、吹けば飛ぶような、根も葉もない想像に心を煩わす男と思うのか。おれは容易なことでは嫉妬に駆られなどせぬ。...(中略)...おれはまずこの目で見る、見てから疑う、疑った以上証拠を摑む、あとは証拠次第だ、いずれにせよ、道は一つ、ただちに愛を捨てるか、嫉妬を捨てるか!(第三幕第三場)

嫉妬の本質が見えているのに、嫉妬に我が身の自由を奪われつつある男の悲劇。


神様、どうぞお力を、悪意から悪を学びませぬよう、それを鏡に自分の悪を正すことが出来ますよう!(第四幕第三場)

デズデモーナ=「不運な」女の祈りが天に届くことはなかった。
名は体を表す、か。


哀れな男の最期はこう締めくくられる。

ただ、どうしてもお伝えいただきたいのは、愛することを知らずして愛しすぎた男の身の上、めったに猜疑に身を委ねはせぬが、悪だくみにあって、すっかり取りみだしてしまった一人の男の物語。無智なインディアンよろしく、おのが一族の命にもまさる宝を、われとわが手で投げ捨て、かつてはどんな悲しみにも滴ひとつ宿さなかった乾き切ったその目から、樹液のしたたり落ちる熱帯の木も同様、さん然と涙を流していた、そう書いていただきたいー(第五幕第二場)

「愛することを知らずして愛しすぎた」男の物語。
愛は尊いが、その本質を知らずしてその行為をしても愛は成されない。
「知る」ことの大切さ。
愛を「知る」ことから愛ははじまるのか。


面白いのは、悪徳者であるはずのイアーゴーの言になかなかよい言葉があること。
口が立つ人間には気をつけろ、というこれもまた教訓なのでしょうか...