クオリア入門―心が脳を感じるとき 【茂木健一郎】

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プロセス・アイに続いて茂木さんの著作を読みました。

しかし読むのに時間がかかった~
プロセス・アイに比べると桁違いに難しい。
まあプロセス・アイは物語、こちらは入門書とはいえ科学書ですからね。


小学生の時の夢は科学者か警察官になることだった。
それはあながち幻ではなかったような気がします。
でもやはり僕は今科学者になりたいと思いません。

デザインを自分のものにするためのヒントが"クオリア"にある気がした。
前職にいたときからクオリアという言葉になぜか惹かれるものがあった。

相変わらず歩みは遅く、その上回り道ばかりだけど。
確実に前進はしている気はする。

内容の半分は理解できなかったけど。
以下はそのつたない理解度による僕の「主観」です。


「心はどこからくるのか」

それを科学的な見地から追及するのが悩科学。
それを知ったからといってデザインにどのように役立つのか今はよく分からない。

でも何か役立つ気もする。
第六感ってやつでしょうか。


「私」という主観、つまり自我、エゴはどういうメカニズムで動いているのだろう。
科学者でなくても誰でも一度はふと考えることではないでしょうか。
エゴの強い人、エゴに無頓着な人との差はどこから来るのか。
エゴに悩む人間ならなおさらその興味は深い。

「クオリア入門」というタイトルですが、
エゴを構成するものはクオリアだけではないようです。

バラの赤い感じ。牛乳の白い感じ。ヴァイオリンのあのなんともいえない音色。
数値では説明できないその「感じ」がクオリアなのですが、
茂木さんは最初そのクオリアが「私」という主観を構成すると考えていたそうです。
しかしそれだけでは不十分だった。

クオリアは行ってしまえば高画質なディスプレイ。
高価なディスプレイにどんなに鮮明な画像が映っていても、
その画像を見ていなければ、画面に「注意」を向けていなければ
その鮮明さを感じることはできない。

その注意を向けることを「ポインタ」もしくは「志向性」と茂木さんは呼んでます。
クオリアにポインタをマッピングする。
それが自我を構成する重要なファクターらしいですが、
それを悩科学的に確かなものとして根拠付けるのはまだまだだそうです。


デザインとアートの違いはなんだろう。
美大にいれば、デザインを学んでいれば嫌でも考えること。
これまで僕はアートは自己満足で、デザインはコミュニケーションだと思ってた。
でも正直今はその考えに自信がなくなってきている。
画家だって、アーティストだって人に認められたいはずだ。
そう考えたらアートにだってコミュニケーションはある。
ただ、どっちにせよデザインにはコミュニケーションは必要なわけだし。

コミュニケーションをするにはエゴを越える必要がある。
エゴを越えるにはエゴがどこにあるのか知る必要がある。
エゴがどこにあるのか知るためにはエゴがなんなのか知る必要がある。

だから僕は知りたい。心を知りたい。
科学的根拠でも、哲学的根拠でも、美術的根拠でも。


エゴを知らない人間はデザイナーになんかなれない。
自分を好きになれない人間が他人を好きになんかなれやしない。
他人を好きになれない人間が他人のために良いデザインなんかできやしない。

だから僕は自分が好きなのだ。
それでいいのだ。
バカボンのパパなのだ...(とくに意味なし)