原点回帰指向

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最近は日々がゆっくり流れていきます。

歳をとると月日の流れを早く感じる、といいますが、
最近の僕の状況を鑑みる限り、それはそれほどあてはまらないみたいです。

でもある日突然、失った時間に気づく。
その失った時間に対して人は時の流れを感じるものではないでしょうか。

いつもいつも時間を感じながら生きることなんてできやしない。
僕らには考えること、実行しなければならないことが多すぎる。

人は好きだけど、人が集まり過ぎるところはキライ。
一対一はなんともないけど、大勢の中では自分の力が発揮できない。
これまではそんな自分に自己嫌悪していました。

でもある物事を悪いように捉えるより、
良いように捉えるほうがずっと幸せになれる、と気づいてからは
そんな自分も一つの個性なんだな、と思えるようになった。

理屈ではもうなにも怖いものがなくなって、
なにも思い悩むこともなくなったような気がするのだけど。

理性の壁は乗り越えたような気がするけれど、
感覚の壁を乗り越えられていない気がしてならない。

一山越えてまた一山。

人生谷あり山あり、ですな。

ふと目覚めるとわけもなく悲しくなる。
そして気づくとふと、その悲しみは消えている。

その逆にわけもなく楽しくなるときもある。
そして気づくとふと、その楽しさも消えている。

日々そんな繰り返し。

でもそれがおかしい、異常だとは思わない。
むしろそれで正常なんだと思う。
正常、というより、より良い状態に向かっているのだと思う。

たぶんそれは「生きてる」ってことを敏感に感じているのだと思う。

「生きてる」ってことは「動いている」こと。
「動いてる」ってことは「エネルギー」があること。
「エネルギー」とは「波」だ。

その「波」を意識して感じ取っているんだと思う。
生命のリズムが感情の波として現れて、それを意識してるんだと思う。

最初はそんな自分に戸惑っていたけれど。
最近はそんな自分もそれほど悪くない、って思えるようになりました。

それって自分がなにものか、を知ることができてんじゃん。
それって自分のリズムを感じ取れてんじゃん。


最近の僕のキーワードは「原点回帰」。
巡り巡ってまたもとの位置に戻ってくる。

僕はシンプルなものが好きだけど、
だからといって最初からずっと「シンプル」のそばにいたんじゃ
はたして僕の魂が本当に「シンプルなものが好き」なのか、
ただ横着なだけで複雑なものを避けたいだけの逃避作用なのかは分からない。

いろんなめんどくさいことをして、
いっぱい複雑なものを見て、
それでもシンプルなものを僕が作るのなら、それが本当の「僕」なんだろう。


でもやっぱり今この文章を僕は理性で書いている。
それが今、「感覚の壁」が目の前にあると感じている原因なんだろう。

シュルレアリスムの「オートマチズム(automatisme)」のように、
理性じゃなく感覚で無意識下で素直に文章が書くことができたとき、
「本当の自分」に気づけるんじゃないだろうか。

その時自分がなにをすべきなのかを理解して、
足を止めずに行くべきところへ歩いてゆくことが自然にできるようになる...


...ような気がする。