カエルの子は...

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風邪のときはとかく気分が滅入りがち。
そこへ追い討ちをかけるような知らせ。

昨日のこと。
15年近く疎遠だった妹から突然メールが届いた。
家族からもらう初めてのメール。

妹とは去年ようやく年賀状を出し合えるようになりました。
年賀状をみる限り、二児の母親である彼女は幸せそうでした。
僕の記憶には最後に神戸で別れたときの18歳の妹の姿しかない。


はじめてもらうメールは悲しい知らせだった。


僕から遅れること半年、妹も離婚していた。
メールの添付ファイルには二人の子供の写真が写っていた。
何も知らず無邪気に笑っていた。

不憫でたまらなくなった。

何もしてやれなかった自分が情けなかった。

彼女はどんな思いで別れに踏み切ったのだろう。

あらためて僕ら兄妹に刻み付けられたキズを呪った。


所詮カエルの子はカエルなのか。

僕らはそんなに多くのことを望んでいるわけではないのに。
なにが一番幸せなのか、分かっているはずなのに。

生父母の愛を受けられなかったことがそれほど悪なのか?
それがそんなに家庭を築く能力を欠落させるのか?

いま、リリー・フランキーの『東京タワー』を読んでます。
まだ50ページほどなのですが、この本は読んでいると
どうしても自分の家族と人生に重ねてしまう。


小さい頃、東京の親戚を尋ねて上京したときに
東京タワーに連れて行ってもらったのですが、
よほど嬉しかったのか、目に焼きついたのか、
広島に帰ってもしばらくは電信柱を見るたびに
「とうきょうたわー!」って叫んでいた。


僕自身は全然記憶になくて、祖父母の言によるものなのだけど。
思春期の頃は反抗期も相まってそのことを言われるたびに
「ばかにするな!」、と腹を立てたものですが
今となっては懐かしい思い出。

このように僕の思い出は育ての親である祖父母がくれたもの。

父の顔は分かるけど、交わした言葉は思い出せない。
実母に至ってはただ1枚だけある家族写真でしかその顔がわからない。
僕たち兄妹と実父母の間には子供の養育を放棄した、
つまり「捨てた-捨てられた」、という事実しか存在しない。

僕の中にぽっかり大きな穴が空いている。
その穴を祖父母との思い出がいくぶんか埋めてくれたけど、
完全には埋め切れなかった。
だから埋め切れなかった部分を僕は最初「憎しみ」で埋めた。
実父母を恨むことで埋めようとした。
でも結局それは「本当の憎しみ」ではないから、
やはり穴は完全には埋め切れなかった。
ぽろぽろ崩れてまた穴が空いた。

穴を埋めるための方法をまた探さなければならなくなった。
それで本を読むようになった。映画も観るようになった。
人の物語から"こたえ"を探そうとした。

はたして、『東京タワー』からその"こたえ"が見つかるだろうか。
...ヒントくらいは見つかるといいな。


(2006/03/14 drecomより移動)