大学も春休みに入ったということで。
ようやく今年最初の初稽古。
はるばる厚木まで行ってきました。
運動不足のために身体のキレと体力の衰えはいかんともしがたいけど、
感覚だけは鈍ってなかった。
稽古は畳の上でだけでするものではない。
道着と袴を着用して合気道の技を練習するだけが稽古ではない。
感覚を磨くこと。
それが合気道における真の稽古ではないだろうか。
そういう意味では美大という場所はまさに感覚を磨く場所として最適。
...久々の稽古でも感覚が衰えなかったのはそういうことだったのだろうか。
少し前に師範の先生がケガをしたというニュースを聞いて、
弘法も筆の誤りか?...と心配していたのですが、
普段の稽古の賜物か、予想以上の回復で、本人曰く95%の回復率だとか。
見た感じも元気そうで安心しましたが、
それでもやはり激しい動きはできないため、
飛び受け身系の技はできず、ちょっと残念。
僕が現役でバリバリ練習に励んでいた時期に比べて、
最近は基礎練習のボリュームを増やし、気功系のメニューが増えていました。
師範も日々、指導法を熱心に研究されているようです。
そのおかげか、
運動不足のなまった身体もじわじわ合気道モードになってゆき、
心地よく稽古することができました。
ただ一つ、今ひとつ好きになれなかった練習法がありました。
ウソを言うときとホントのことを言うときでは「当たり」が違う、ということを
実験的に体感するものですが、僕にはどうも感覚的にピンと来なかった。
いや、正確には分かりたくなかった、というべきだろうか。
人間の心理が、フィジカル面に影響を与えることは僕も否定しない。
ただ、僕はそれを確かめるために合気道をしているわけじゃない。
気功の効果も否定する気はないけれど、
その効果をあからさまに説明する必要もないと思う。
初心者にはどのような言葉で説明しても分かるものでもないし、
ある程度修練を積んだ者は言葉ではなく、感覚で理解するもの。
あくまで自然に体得してゆくもの。
それが気功というものではないだろうか。
かつて先生はそれを自然に分からせようとしていた気がするのだけど、
昨今ではショー的に、作為的に説明しようとする。
それが僕にはちょっと受け入れ難いものでした。
だからといって先生の合気道を全否定する気はない。
先生の指導のおかげで今の僕の合気道がある。
僕の合気道のルーツはやはり先生の合気道なのだから。
今でも先生に対する尊敬の念は絶えない。
合気道には四段以上は審査がありません。
それはつまり、それ以後は自分で自分の合気道を審査しろ、ということ。
師範や先輩たちの指導を鵜呑みにするのではなく、
自分で考えて、自分の合気道を作ってゆけ、ということ。
先生の合気道を模倣するだけでは、
どれだけ完璧にコピーできたとしても、
それが自分にとっての理想の合気道とは言えない気がする。
どんなに先生の合気道が立派でも、
どんなに自分の稽古量が遠く先生に及ばなくても、
僕と先生では違う人間なのだから、同じ合気道はできはしないし、
同じ合気道をしたい、と思うべきでもない。
自分の合気道を追求していく過程で、
師範と相容れない部分があるならば、その部分は選択するべきではない。
ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、
やるべきことは「選択しない」ことであって、「否定すること」ではない。
僕が選択しない部分を選択する人もいるだろうから。
信ずることはパワーになる。
ただ、なんでもかんでも信じればいい、というものでもない。
この世界はそれほどおめでたい社会じゃない。
またなんでもかんでも信じる、というのは膨大なエネルギーは必要だけれど
エネルギーさえあれば誰でもできてしまうことじゃないのかな。
以前は疑うことは悪だと思いこんでいた。
でも人は疑うことで科学を進化させてきた、という局面もある。
信じることと疑うこと。
この二つの行為の適正な選択とタイミング、バランスが
ほどよい心地よさを生み出すのではないだろうか。
休むことなく畳の上で稽古をし続ける。
それは本当に立派なことだと思う。
かつては僕もそうあろうと稽古に励んでいた。
でもそれはやはり数多くある真実の一つに過ぎない。
それだけでは見えてこないものも世の中にはたくさんある。
しばらく畳の上の稽古を断つことで見えてきた真実もあった。
合気道はもはや僕の一部だ。
僕が意識し続ける限り、合気道は僕のそばにある。
自分が幸せになり、自分の周囲が幸せになるために
僕は僕の合気道を求め続ける。
それが師に対する最高の恩返しになるのだろう。
...そんなことを感じた今年初の稽古でした。
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