香川県さぬき市にある志度寺に行ってきました。
四国八十八ヶ所霊場第八十六番。
志度湾に面した静かな場所でした。
お目当ては重森三玲が1962年につくった枯山水庭園「無染庭」。
四国で唯一三玲の庭が見れる場所なのでしょうか。
境内には立派な五重塔が建っており、なかなかの規模のお寺ですが、
訪れた時にはちょうどお寺の人が掃除をしたものの、
全体的には人の気配を感じず、廃墟感が少なからず漂っていました。
意図的にこのような寂れた感じを出しているのか、
はたまたあまり手入れがされなくなってきているのか。
足摺岬にある四国八十八ヶ所霊場第三十八番、金剛福寺。
室戸岬にも第二十四番、最御崎寺(ほつみさきじ)がありますが、
岬にはこういう霊場がつきものなんでしょうか。
とくに深い信仰心があるわけではないですが、
東西問わず宗教施設を見るのが好きです。
その空間は具体的な機能を提供してくれる場所ではないですが、
そこは「信じる」という行為がパワーになることを教えてくれます。
太古より人間の生きる力となってきた。
いつか。いつの日か。
八十八ヶ所の霊場を歩いて巡りたい。
四国八十八ヶ所霊場第七十五番、善通寺。
香川県善通寺市は弘法大師の生誕地です。
唐より帰国した空海は父・佐伯善通が寄進した四町四方の地に、
唐で師事した恵果和尚の住した長安・青龍寺を模した寺を建立しました。
寺名は父の名をとって善通寺とされました。
その後鎌倉時代になって佐伯家の邸宅跡に誕生院が建立され、
江戸時代までは善通寺と誕生院はそれぞれに住職を置く別々のお寺でしたが、
明治になって善通寺として一つのお寺となり、
元からの伽藍部分を東院、誕生院の部分を西院と呼ぶ二院構成になっています。
当地は香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳が屏風のように連なっており、
「屏風浦」とも称されていることから山号は「屏風浦五岳山」、
弘法大師生誕の地であることから院号は「誕生院」となっています。
高知の東の岬、室戸岬。
その岬を見下ろす小高い山の上、海を照らす灯台のそばにそのお寺はあります。
高知の2つの岬は弘法大師にとても縁のある場所です。
足摺は唐に渡った空海が帰国の際に放った金剛杵が届いた地であり、
室戸は空海が若かりし頃、虚空蔵求聞持法の山林修行を積んだ地です。
嵯峨天皇の勅願を受けた空海は再び室戸の地を訪れ、
虚空蔵菩薩を彫って最御崎寺を大同2年(807年)に開創しました。
ちなみに足摺岬には弘仁13年(822年)にやはり嵯峨天皇の勅願により金剛福寺が開創されました。
丸亀をあとにして、高松は五色台へ。
五色台は「香川県の中央部から瀬戸内海にせり出した溶岩台地」です。
紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰という五色の名の付いた五つの山があり、
そのうちの一つ、青峰に四国八十八ヶ所霊場第八十二番、根香寺(ねごろじ)があります。
平安時代初期、この地に霊力を感じた弘法大師がまず「花蔵院」を建立します。
その後この地を訪れた弘法大師の甥である智証大師がお告げにより千手観音像を彫り、
千手院という堂宇を建てて安置しましたが、
像を彫るのに使った霊木が芳香を放つようになったことから、
花蔵院、千手院をあわせて「根香寺」と呼ぶようになったそうです。
内藤建築のある牧野植物園。
五台山という丘の上にあるのですが、
その植物園の隣に立派なお寺があるではないですか。
四国八十八ヶ所霊場の第三一番、竹林寺。
ここには、五重塔や仏陀像、日本庭園まであって、
これまで訪れた霊場(...といってもまだ四つですが)の中でも、
とりわけ立派なもの。
今回はとくに八十八ヶ所巡りをしてたわけではないのだけど、
立派な寺院を目の前にして素通りするわけににもいくまい。
日本の宗教建築は主にインドや中国から派生したもので、
それらの建築との共通点が多く見られるけれど、
それでもよく見ると、日本建築独自の雰囲気というものがあり、
その正体を見極めることが、日本の良さを再認識することになる。
「良さ」は新しく作る必要はない。
目の前にあるものをしっかり見つめるだけで、見えてくるものがある。
宇和島市三間の仏木寺・龍光寺に続いて西予市宇和の明石寺へ。
正確には「源光山 円手院 明石寺(げんこうざんえんしゅいんめいせきじ)」。
宇和の街中からちょっと外れて山の中に入ったところにあります。
歴博や宇和文化の里からも近く、800mほど山の中を歩いて行き来できます。
しかしやはりそこは霊場、宇和の街がすぐそばにあるとは思えないほどの静けさ。
今回訪れた三つの霊場の中では一番立派だったような気がします。
創建は6世紀、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が、
唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るために伽藍を建立したことにはじまります。
その後、734年に寿元行者が紀州熊野から十二社権現を勧請し修験道の中心道場としました。
822年に弘法大師がこの地を訪れた際には荒廃していましたが、
嵯峨天皇の勅命により諸堂を再興、
鎌倉時代に入ってまたまた荒廃してしまったこの寺を源頼朝が再び再建。
以来武士の帰依があつく、信奉されてきました。
仏木寺から車でおよそ10分。
四国八十八ヶ所霊場第四十一番、龍光寺に到着。
正確には「稲荷山護国院龍光寺(いなりざんごこくいんりゅうこうじ)」と言います。
仏木寺に比べると、ちょっと入り組んだところにあって分かりにくい。
また、入口の鳥居から本堂までが離れていて、これまた分かりにくい。
本堂は階段を少し登った、小高い丘の上にあります。
ここの特徴は、お稲荷さんがあることでしょうか。
神仏習合のお寺だったんですね。
宗教の垣根を超えられる、って素晴らしい。
世界は広い。
いろんな神様がいるんだもの。
四国八十八ヶ所霊場は宇和島市には二つ、西予市に一つあります。
今回はこの三つのお寺を訪ねてきました。
まずは第四十二番、仏木寺から。
平安時代初期、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。
老人に進められるまま牛の背に乗って歩いていると、
楠の大樹の梢に宝珠が引っかかっているのを見つけた。
よくよく見ると、その宝珠は大師が唐からの帰国の際に三鈷と一緒に放った宝珠であった。
この地こそ霊地であると感得した弘法大師は、楠の大日如来像を彫り、
堂宇を建てて本尊に安置した。
この由縁より仏木寺は家畜牛馬の守り神として崇められてきました。
境内には牛馬の陶磁器や扁額が数多く奉納された家畜堂があるそうですが、
訪れた時はこの由縁を知らず、見過ごしてしまいました。
ちなみに三鈷の方はさらに遠くの足摺岬まで飛んでゆきました。
やはり霊地として金剛福寺が開創されています。
生きものは生きていくために他の生きものを殺し、食らう。
どのような理由であれ、命を奪うことは罪であるから、
できることなら必要最低限に留めるべきである。
人間は狩りよりも安定して食料を確保するために
食料用の生きものを飼育する術を覚えた。
一見狩りよりも温和な行為のように思えるが、
そう思ってしまうのは屠殺の現場を見ないからである。
ただ食われるためだけの生きものを神ではない人間が創り出し、殺す。
食料の自給が安定化することで食料のありがたみを忘れる。
どんなに罪深い業であろうか。
そのことを自覚するために仏木寺のような家畜に感謝を捧げるお寺はあるのだろう。
聖地を巡礼し、自らの身体に苦行を強いることで人は人であることを贖罪する。
連休最終日。
2日目までの悪天が嘘のような散策日和。
いてもたってもいられず、久々の散策。
1月は大風邪引いてほとんど家にこもりっきりだったし。
今年初の散策。
古代インド様式の奇抜の外観から前から訪れてみたいと思ってたのだけど、
ブラタモリで築地特集を見てますます行きたくなって。
築地本願寺→勝鬨橋→浜離宮→汐留(白井晟一展)と散策してきました〜
まずは築地本願寺。
池上散策、池上本門寺編。
池上梅園から池上本門寺へ。
池上本門寺は前に一度来たことがあるのですが、
その時はバイト中でゆっくり中を散策することができず、
今回はデジ一を片手にじっくり中を散策してきました。
日蓮宗系の大本山ですが、純和風のお寺ではなく、
少なからず中国風が混ざっているような気がしました。
けっこう大きな墓所があるのですが、
いろんな形やデザインのバリエーションに富んでいるのが面白かった。
力道山のお墓もここにあるんですね。
...この街は広すぎる
BIG CITY IS A LONELY PLACE
独りぼっちじゃ
街の明かりが
人の気を狂わせる...
(アン・ルイス『六本木心中』)
課題が一段落して、芸祭期間で大学が1週間の休み。
かねてから見に行きたかった展示を見に行ってきました。
・山種美術館 速水御舟展
・ギャラリー「間」 隈研吾展 Studies in Organic
・21_21 Design Sight THE OUTLINE 見えてない輪郭
天気も良かったので、散策がてら恵比寿~乃木坂~六本木を歩きました。
夏草や 兵どもが 夢のあと 芭蕉
平泉に行ってきました。
平泉は大きく分ければ、駅から近い毛越寺エリアと、
駅からはちょっと離れている中尊寺エリアとに分かれます。
というわけで、まずは毛越寺エリアからレポート。
毛越寺エリアの現在はまさに芭蕉の句のごとし。
変に当時の在世を全再現するのではなく、
兵どもが失った「夢の跡」が忠実に再現されているのかな。
遺跡の正しい残り方ってこういうのではないだろうか。
[千光寺大師堂]
しまなみ海道広島側の玄関口、尾道。
「坂の街」「文学の街」「映画の街」。
林芙美子、志賀直哉などが居を構えた街であり、
小津安二郎監督の「東京物語」が撮影された街であり、
大林宣彦監督の「尾道三部作」の舞台となった街である。
しまなみ海道を自転車で横断するにあたり、まずはこの街を散策。
しかし、坂の街だけに自転車での移動はなかなか骨が折れるものでした...
【追記】
2017年5月、NHKの「ブラタモリ」で尾道を特集していました。
尾道は3つの山に囲まれた町ですが、
かつては今よりもっと平野部が少なく、海がもっと内陸部まで入り込んでいて、
尾根の際に張り付くように道が走り、人が集まっていました。
それが「尾道」という町の名前の由来です。
千光寺公園を見れば分かるように、尾道の山肌には巨岩がゴロゴロしており、
昔から神聖な場所とされていたことから、
尾道三山の千光寺・西國寺・浄土寺を中心に多くの寺社が建てられました。
また、尾道の近く(現在の世羅町辺り)には大田荘という大きな荘園があり、
尾道はこの大田荘でできる作物を積み出す港町として栄え、
多くの寺社も港町の商人たちによって建てられました。
こうして町が栄え、人が増えるに連れ、海を埋め立てて町を広くしていく一方で、
明治になって聖域と俗域の境目である山の際に鉄道が通ると、更に町は拡大してゆき、
寺社は土地を貸し出し、人々は山肌にも家を建てるようになりました。
そして埋め立てられることで尾道水道は川のように幅が狭くなり、
元々寺社が多かった山肌にも町は広がり、尾道は坂の町となったのです。