中村先生の特講Ⅰの後期テストの第一問。
「アルチュール・ランボーとはいかなる人物であったか」
...今となってはうろ覚えだけど、こんな感じだった気がする。
実際の解答ももちろんうろ覚え。
こんな感じで書いた、という程度。
人間は忘れゆく生きものである。
どんなに一生懸命学んでも、時間が流れてゆくごとに悲しいほど忘れてしまう。
そんな忘却を少しでも留めておきたく、僕は記録する。
Architecture, Art, and sometimes Design.
中村先生の特講Ⅰの後期テストの第一問。
「アルチュール・ランボーとはいかなる人物であったか」
...今となってはうろ覚えだけど、こんな感じだった気がする。
実際の解答ももちろんうろ覚え。
こんな感じで書いた、という程度。
人間は忘れゆく生きものである。
どんなに一生懸命学んでも、時間が流れてゆくごとに悲しいほど忘れてしまう。
そんな忘却を少しでも留めておきたく、僕は記録する。
[ボードレール](画像はWikipediaより)
前期の「特講Ⅰ」では5人の文学作家を学びました。
うち3人が詩人で、一人はジョン・ダン。
残る二人が今回取り上げるボードレールとロートレアモン伯爵。
二人ともほぼ同じ時代に生き、共に「悪」を取り扱う詩人。
だからなのかどうもこの二人を混同してしまう。
年齢的にはボードレールのほうが四半世紀先輩。
ボードレールは46歳、ロートレアモン伯爵は24歳という若さで早逝。
人間は誰しも自分の中に「悪」を持っている。
完全なる「善」が神であるならば、神は「不完全な存在」として人間を創造した。
さらにその人間を男と女に分有した。
不完全であるがゆえに人間は生まれながらにして悪を内に持ち、
完全な存在になろうとして「美」を求める。
先人たちは人間の美を求める本質にのみに着目し、
「真・善・美」という芸術のプラス方向にのみ目を向けてきた。
しかしそれでは本当の芸術は、真の美は追求できない。
ボードレールは人間の二重性に着目することで悪の領域から美に迫り、
ロートレアモン伯爵は人間の不完全さを憎むマルドロールの視点において
悪の領域から美に迫った。
「美」とはいったいなんなのだろう。
[ジョン・ダン肖像画](出典:Wikipedia)
前期試験が終わり、一応夏休みに入りました。
しかしまだレポートが残っていたり、ゼミの撤収作業が残っていたりと
まだ気が落ち着けません。
前期のテストは中村先生の「特講Ⅰ」のみ。
結果は...たぶん完璧。
録音した講義内容を聞き返しながらテスト勉強。
ノート持ち込みOKなので、暗記する必要はないのだけど、
限られた時間内でしっかり記述するために、要点を整理。
せっかくなのでブログに記録しておこうと。
まずはイギリスのマニエリスムの詩人、ジョン・ダン。
奇想(Concetto:コンチェット)の達人。
大学の授業で鑑賞しました。
副題から無敵の戦士、ジョン・ランボーシリーズかと誤解しそうですが
実在の詩人、アルチュール・ランボーの物語です。
若き頃より天才と称され、その詩の才能を発揮してきたランボー。
彼の才能を見出したヴェルレーヌとの共同生活を歩みながらも
天才であるがゆえに世の中と迎合できず、
詩を捨て、ヴェルレーヌとも決別する...
物語は詩を捨て、武器商人として生きる現在と
若き日の詩人としての在りし日が交錯しながら進んでいきます。
その様は彼が自分の生きる道を悩みながら模索している姿そのもの。
正直暗い話であまり抑揚もなく淡々と進むので見ていて気が滅入ります。
自分が生きる道なんていくら探したって見つかりはしない、という
絶望感まで抱かせそうで怖い。
それでも人間って自分の生きるべき道を模索し続ける生きものなんだよね...
大学の授業で見ました。
スペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの死の真相に迫るサスペンス。
実際はロルカの死については謎であり、
本作はあくまでフィクションです。
しかしかなり面白かった。
面白かった、というよりは魂を揺さぶられた、という表現のほうが正しいかもしれない。
この映画を観る前にロルカの詩を中村先生が解説してくれたのですが、
どうも詩の良さ、というものがピンと来ない。
百聞は一見にしかず。
言葉の伝達能力は映像に比べるとその及ばざること山の如し。
しかし映像だけでは伝えきれないものがある。
言葉でしか伝えられない思いもある。
だからやっぱり言葉は必要で、そして詩人もやはり必要なのでしょう。