四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
下段部・上段部に続いて、庭園・本坊・宝物館エリアを紹介していきます。
石手寺の庭園はいわゆる美観や莊嚴さをアピールしたものではありません。
やはりカオス感を全面に押し出した不思議な雰囲気を醸し出したものとなっています。
仁王門の右側の三重塔や鐘楼の奥に七転八福神を祀った庭園があります。
さらにその奥に寺宝を常時展示している宝物館や、
ブッダの一生を表現した彫刻を置いた庭がある本坊があります。
Architecture, Art, and sometimes Design.
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
現在の境内はさほど広いわけではないのだけど、
盛りだくさんすぎるので3つのパートに分けます。
本記事では、下段部から上がってきて上段部をご紹介。
本堂の裏側には洞窟があり、その奥にはさらに奥の院があります。
ただ、本堂に来るまでにもうたくさんありすぎてついつい見過ごしがち。
(自分は最初見過ごしてしまいました^^;)
しかし、この本堂の奥にこそ石手寺ワールドの醍醐味が潜んでいるのです。
四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所、熊野山 虚空蔵院 石手寺。
時は奈良時代、伊予の豪族・越智玉純が霊夢により熊野十二社権現を祀ったのを機に、
聖武天皇の勅願所となり、行基が薬師如来を刻んで本尊に祀って開基した。
この時の寺の名前は「安養寺」であった。
平安時代に衛門三郎という長者がいた。
ある日、托鉢の僧を弘法大師と知らずに托鉢をとり上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れた。
以後三郎の八人の子どもがことごとく死んだ。
三郎は改心し、大師を探して四国巡拝の旅に出るが、出会えぬまま病に伏してしまう。
その時、枕元に弘法大師が現れ、「衛門三郎」と刻んだ石を授けると、
三郎は安堵して息を引き取る。
ちなみにこの時の巡礼旅が四国遍路のはじまりであり、衛門三郎はその開祖とされています。
その後、地方豪族の河野息利に男子が生まれたが、右の手を握ったまま開かないので
この寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎」と刻まれた石が出てきた。
そこでこの石を当山に収め、寺号を安養寺から石手寺に改めた。
...由来を聞くだけでもなかなか奇妙な感じのお寺ですが、その実態もなかなか。
それはまさにカオス。
愛媛県にある3つの国宝建造物はすべて松山市内にあります。
今回は松山総合公園の麓にある大宝寺に行ってきました。
残る二つの太山寺、石手寺のような四国八十八ヶ所霊場ではありませんが、
空海の興した真言宗系のお寺です。
古照山薬王院大宝寺。本尊は薬師如来。
飛鳥時代の大宝元年(701年)に小千(越智)伊予守玉興により創建。
現在残っている本堂が平安末期の阿弥陀堂形式を用いて鎌倉時代の建立で、
愛媛県最古の木造建造物であり、国宝建造物に指定されています。
松山市のほぼ中心部にありながら周囲は閑静な住宅街であり、
境内もそれほど大きくなく、併設されている住職の邸宅のほうが立派に見えるくらい、
簡素ですっきりした構成でした。
お遍路巡りの寺に指定されていないこともあってか、参拝者は自分以外に誰もなく、
ひっそりとした雰囲気でした。
まあ、自分はお寺のそういう雰囲気が好きなのだけど。
松山市太山寺町にある太山寺に行ってきました。
創建は飛鳥時代、開基は真野長者。
ある時、長者が商いで大阪に向かう途中、嵐に遭難。
そこで観音様に無事を祈願したところ、高浜の砂浜に無事流れ着く。
この報恩に、と一夜にしてこのお寺を築き上げた、という伝説が残っています。
鎌倉時代に創建された本堂は、桁行七間、梁間九間、屋根は入母屋造りの本瓦葺で
全国屈指の規模を誇り(県下最大)、国宝に指定されています。
ちなみに愛媛県ではこの太山寺本堂と石手寺仁王門、大宝寺本堂の3つが
国宝建造物に指定されています。
長い年月風雪に耐え抜いてきた屋根は独特の重みというか迫力を感じずにはいられない。
香川県さぬき市にある志度寺に行ってきました。
四国八十八ヶ所霊場第八十六番。
志度湾に面した静かな場所でした。
お目当ては重森三玲が1962年につくった枯山水庭園「無染庭」。
四国で唯一三玲の庭が見れる場所なのでしょうか。
境内には立派な五重塔が建っており、なかなかの規模のお寺ですが、
訪れた時にはちょうどお寺の人が掃除をしたものの、
全体的には人の気配を感じず、廃墟感が少なからず漂っていました。
意図的にこのような寂れた感じを出しているのか、
はたまたあまり手入れがされなくなってきているのか。
足摺岬にある四国八十八ヶ所霊場第三十八番、金剛福寺。
室戸岬にも第二十四番、最御崎寺(ほつみさきじ)がありますが、
岬にはこういう霊場がつきものなんでしょうか。
とくに深い信仰心があるわけではないですが、
東西問わず宗教施設を見るのが好きです。
その空間は具体的な機能を提供してくれる場所ではないですが、
そこは「信じる」という行為がパワーになることを教えてくれます。
太古より人間の生きる力となってきた。
いつか。いつの日か。
八十八ヶ所の霊場を歩いて巡りたい。
四国八十八ヶ所霊場第七十五番、善通寺。
香川県善通寺市は弘法大師の生誕地です。
唐より帰国した空海は父・佐伯善通が寄進した四町四方の地に、
唐で師事した恵果和尚の住した長安・青龍寺を模した寺を建立しました。
寺名は父の名をとって善通寺とされました。
その後鎌倉時代になって佐伯家の邸宅跡に誕生院が建立され、
江戸時代までは善通寺と誕生院はそれぞれに住職を置く別々のお寺でしたが、
明治になって善通寺として一つのお寺となり、
元からの伽藍部分を東院、誕生院の部分を西院と呼ぶ二院構成になっています。
当地は香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳が屏風のように連なっており、
「屏風浦」とも称されていることから山号は「屏風浦五岳山」、
弘法大師生誕の地であることから院号は「誕生院」となっています。
丸亀をあとにして、高松は五色台へ。
五色台は「香川県の中央部から瀬戸内海にせり出した溶岩台地」です。
紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰という五色の名の付いた五つの山があり、
そのうちの一つ、青峰に四国八十八ヶ所霊場第八十二番、根香寺(ねごろじ)があります。
平安時代初期、この地に霊力を感じた弘法大師がまず「花蔵院」を建立します。
その後この地を訪れた弘法大師の甥である智証大師がお告げにより千手観音像を彫り、
千手院という堂宇を建てて安置しましたが、
像を彫るのに使った霊木が芳香を放つようになったことから、
花蔵院、千手院をあわせて「根香寺」と呼ぶようになったそうです。
五台山という丘の上にあるのですが、
その植物園の隣に立派なお寺があるではないですか。
四国八十八ヶ所霊場の第三一番、竹林寺。
ここには、五重塔や仏陀像、日本庭園まであって、
これまで訪れた霊場(...といってもまだ四つですが)の中でも、
とりわけ立派なもの。
今回はとくに八十八ヶ所巡りをしてたわけではないのだけど、
立派な寺院を目の前にして素通りするわけににもいくまい。
日本の宗教建築は主にインドや中国から派生したもので、
それらの建築との共通点が多く見られるけれど、
それでもよく見ると、日本建築独自の雰囲気というものがあり、
その正体を見極めることが、日本の良さを再認識することになる。
「良さ」は新しく作る必要はない。
目の前にあるものをしっかり見つめるだけで、見えてくるものがある。
宇和島市三間の仏木寺・龍光寺に続いて西予市宇和の明石寺へ。
正確には「源光山 円手院 明石寺(げんこうざんえんしゅいんめいせきじ)」。
宇和の街中からちょっと外れて山の中に入ったところにあります。
歴博や宇和文化の里からも近く、800mほど山の中を歩いて行き来できます。
しかしやはりそこは霊場、宇和の街がすぐそばにあるとは思えないほどの静けさ。
今回訪れた三つの霊場の中では一番立派だったような気がします。
創建は6世紀、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が、
唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るために伽藍を建立したことにはじまります。
その後、734年に寿元行者が紀州熊野から十二社権現を勧請し修験道の中心道場としました。
822年に弘法大師がこの地を訪れた際には荒廃していましたが、
嵯峨天皇の勅命により諸堂を再興、
鎌倉時代に入ってまたまた荒廃してしまったこの寺を源頼朝が再び再建。
以来武士の帰依があつく、信奉されてきました。
仏木寺から車でおよそ10分。
四国八十八ヶ所霊場第四十一番、龍光寺に到着。
正確には「稲荷山護国院龍光寺(いなりざんごこくいんりゅうこうじ)」と言います。
仏木寺に比べると、ちょっと入り組んだところにあって分かりにくい。
また、入口の鳥居から本堂までが離れていて、これまた分かりにくい。
本堂は階段を少し登った、小高い丘の上にあります。
ここの特徴は、お稲荷さんがあることでしょうか。
神仏習合のお寺だったんですね。
宗教の垣根を超えられる、って素晴らしい。
世界は広い。
いろんな神様がいるんだもの。
四国八十八ヶ所霊場は宇和島市には二つ、西予市に一つあります。
今回はこの三つのお寺を訪ねてきました。
まずは第四十二番、仏木寺から。
平安時代初期、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。
老人に進められるまま牛の背に乗って歩いていると、
楠の大樹の梢に宝珠が引っかかっているのを見つけた。
よくよく見ると、その宝珠は大師が唐からの帰国の際に三鈷と一緒に放った宝珠であった。
この地こそ霊地であると感得した弘法大師は、楠の大日如来像を彫り、
堂宇を建てて本尊に安置した。
この由縁より仏木寺は家畜牛馬の守り神として崇められてきました。
境内には牛馬の陶磁器や扁額が数多く奉納された家畜堂があるそうですが、
訪れた時はこの由縁を知らず、見過ごしてしまいました。
ちなみに三鈷の方はさらに遠くの足摺岬まで飛んでゆきました。
やはり霊地として金剛福寺が開創されています。
生きものは生きていくために他の生きものを殺し、食らう。
どのような理由であれ、命を奪うことは罪であるから、
できることなら必要最低限に留めるべきである。
人間は狩りよりも安定して食料を確保するために
食料用の生きものを飼育する術を覚えた。
一見狩りよりも温和な行為のように思えるが、
そう思ってしまうのは屠殺の現場を見ないからである。
ただ食われるためだけの生きものを神ではない人間が創り出し、殺す。
食料の自給が安定化することで食料のありがたみを忘れる。
どんなに罪深い業であろうか。
そのことを自覚するために仏木寺のような家畜に感謝を捧げるお寺はあるのだろう。
聖地を巡礼し、自らの身体に苦行を強いることで人は人であることを贖罪する。