しまなみ海道の島の一つ・因島にある因島水軍城に行ってきました。
どうしてもここに行きたかった、というわけではなくて、
この後のお目当ての場所に向かう船の出発時間までの間、
どこか行けるところないかなあ...と探してて見つけたのがここ。
南北朝時代に村上師清という人物が天皇の命により瀬戸内に入り、
因島に24もの城を築きました。
師清には三人の息子がいて、長男・義顕は能島を、次男・顕忠は来島を、
そして三男・顕長を因島に配置しました。
これが村上水軍のはじまりです。
村上水軍はいわゆるパイレーツ(海賊)のような野蛮な強盗団というよりは、
自衛隊のような専守防衛を旨とする治安維持組織であったと言われます。
夏休み三日目は福井県。
勝山市にある福井県立恐竜博物館を後にして坂井市丸岡町の丸岡城へ。
北陸地方唯一の現存天守である丸岡城は、
安土桃山時代の1576年に柴田勝家の甥・柴田勝豊によって建てられました。
現存十二天守の中では最も古いとされる一方で、
犬山城も創建1537年でこちらが最も古い、と主張していますが、
犬山城よりも39年も後の丸山城が最古を主張するのはどういうこと?
昭和9年に国宝指定されるも、昭和23年の福井地震で倒壊。
昭和25年施行の文化財保護法(新法)では重要文化財指定に留まった。
昭和30年に倒壊材を組み直し復元され、現在にその姿を留める。
鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる 与謝蕪村
夏休み二日目、佐川美術館を後にして現存十二天守の一つ、彦根城へ。
関ヶ原の戦いにおいて徳川四天王の一人として活躍した井伊直政が
その軍功により家康より近江国北東部を賜り、
その居城として彦根城が建てられました。
直政は戦傷が癒えず、築城が実現を待たずに死去してしまいますが、
その子直継の代になった1604年に築城を開始、20年の歳月を経て完成しました。
幕末に大老となった井伊直弼も藩主となるまではこの城で過ごしました。
明治の廃城令とともに解体の危機に遭いますが、
明治天皇が巡幸でこの城を通られた際に保存を命じられたことで破却を免れ、
現在まで往時の姿をよく留めています。
現存十二天守のひとつであり、天守・附櫓・多門櫓が国宝に指定されています。
岡山県高梁市にある備中松山城に行ってきました。
愛媛に住む者としては、「松山城」といえば地元松山にあるお城を思い浮かべるのですが、
じつは瀬戸内海を隔てた岡山にも松山城があります。
愛媛の松山城と区別するために岡山の方は一般的に「備中松山城」と呼ばれています。
ちなみにどちらの松山城も現存天守を擁しています。
標高430メートルの臥牛山山頂にある山城であり、日本三大山城の一つとされています。
臥牛山は「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなっているのですが、
その山容が草上に突っ伏しているように見えるのがその名前の由来となっています。
現在は小松山エリアにのみ天守をはじめとした城郭が残っていますが、
かつては臥牛山全域が一大要塞となっていたようです。
城の歴史は鎌倉時代に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任じられた秋庭三郎重信により
大松山エリアに砦が築かれたことにはじまり、その後小松山移り、
目まぐるしく城主が変わったみたいですが、
現在残っている城郭は江戸時代に小堀正次・小堀政一(遠州)父子、水谷勝宗らにより
修築されたものだとされています。
鳥取の国宝・三佛寺投入堂をあとにして、
安来市の足立美術館を経由して松江入り。
島根は国宝二ヶ所を中心に巡りました。
まずは宍道湖の東端に建つ国宝松江城。
築城は関ヶ原の戦いでの戦功により出雲・隠岐両国を拝領した堀尾吉晴・忠氏親子。
最初はの月山富田城(現在の安来市)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。
以後京極氏、松平氏と藩主が変わり明治維新まで藩政が続く。
昭和10年に一度国宝に指定されましたが、
昭和25年の文化財保護法の制定により重要文化財と改称されたもの、
平成27年7月に国宝に再指定されました。
現存12天守のうち、これまで国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4つでしたが、
新たに松江城が加わり国宝五城になりました。
明治の廃城令時、松江城の多くはことごとく取り壊されましたが、
せめて天守は、と地元有志の奔走により山陰で唯一残される天守となりました。
四国中央市の川之江城に行ってきました。
南北朝時代から戦国時代にかけての城であり、江戸時代にはすでに廃城となっており、
昭和の終盤まで本丸付近の石垣にわずかにその名残を残す程度だったそうです。
当時の川之江市制施行30周年記念事業として城の再建が計画され、
昭和59年より昭和63年にかけて城山公園整備事業に着手し、
天守・涼櫓・櫓門・隅櫓・控塀を順次復元させました。
武運長久を祈願して仏殿・仏像が城内に設置された仏閣でもあったため、
「仏殿城」とも呼ばれたそうですが、現在の姿は必ずしも史実に沿った復元ではないそうです。
今回は到着した時間が閉場時間間際だったため天守の中に入れず、
外観を眺めるだけでしたが、予想以上になかなか立派なものでした。
丸亀にガラスのヒマワリを見に行ったついでに。
石垣の名城・丸亀城に行ってきました。
標高66メートルの亀山に築かれた平山城で別名・亀山城。
創建は豊臣政権下に生駒親正による。
現在の城郭は親正・一正親子二代により1602年に完成された。
現在に残る石垣は山崎氏、天守は1660年に丸亀藩主となった京極高知により完成された。
つまり丸亀城は生駒・山崎・京極の三家にわたって築城されていったもの。
天守は日本に12しかない現存天守であり、
四国内では最も古く、日本一小さな現存木造天守です。
...とパンフには書いてあるのだけど、
Wikipediaでは弘前城天守が14.4メートル(丸亀城天守は14.5メートル)で最も小さい、
とありました。...現存天守はすべて木造だよね?どちらが正しいんだろ。
一方、立派な石垣は4重に重ねられたその高さは60メートルにもなり、日本一の高さを誇ります。
(単体では大阪城の30メートルが日本一の高さ)
日本一高い石垣に日本一小さい天守。
なかなかインパクトのある組み合わせではないですか。
さらにこの城にはもう一つの日本一があるのです。
愛媛県宇和島市内にある宇和島城に行ってきました。
宇和島へは2014年に一年間、職業訓練校にほぼ毎日通いました。
お城のそばも何度も通ったけれど、結局中へ入ることは一度もなかった。
近くにあっても意識できないものってたくさんあるんだな。
宇和島は海のそばの街なので、基本的に平野地形なのですが、
お城は鬱蒼とした森山の中にある平山城です。
松山城と同じく街のど真ん中にこんな森があったのか、という驚きがあります。
築城は1601年、藤堂高虎によってなされました。
その後高虎は今治に転封となり、今治城も築いています。
高虎転封後は伊達政宗の長子秀宗が1615年に入城、
二代宗利の時に天守以下城郭の大修理が行われ、1671年に完成、
その姿を現在にとどめています。
宇和島城の天守は松山城天守とともに現存する12天守のうちの一つであり、
県内に現存天守が2つあるのは愛媛県だけ。
愛媛県はこの2つのお城をもっと誇っていいと思う。
今治城に行ってきました。
今治城は藤堂高虎が関ヶ原の戦いの戦功に伊予半国20万石を拝領し、
1602年に築城を開始、1604年〜1608年に完成させました。
枡形虎口による鉄御門の強固な守り、
堀を二重三重に巡らせて、瀬戸内海の海水を引き入れて、
船が城郭まで入れるようになっていた日本屈指の海城でした。
Wikipediaによれば、築城当時に天守が建造されたかどうかの一次資料がなく、
その存在については諸説あるそうで、
現在の天守は1980年に多門櫓、武具櫓とともに再建された史実に基づかない模擬天守です。
その後1985年に御金櫓、1990年に山里櫓、そして2007年に鉄御門が再建されました。
現在は二の堀、三の堀は埋め立てられ、本丸と二の丸・三の丸を囲む堀のみですが、それでもこの壮観さ。
往時はさぞかし圧倒的だったことでしょう。
返す返すも廃城令という残念な施策が悔やまれます。
[初代城主・加藤嘉明]
2011年にはじめて愛媛に来たときに松山城に登った。
そのときは時間の都合上、三の丸や二の丸をすっ飛ばして、本丸まで登ったものの、
天守閣の中には入らず引き返した。
それから6年。
ようやく松山城への核心へと迫る。
松山城はお堀に囲まれた平地部の三の丸、
勝山山麓にあって政務や藩主家族の居住場所であった二の丸、
標高132メートルの勝山山頂部に建てられた本丸が、
南西から北東へと斜めに連なる平山城です。
築城は1602年に加藤嘉明により取りかかるが、
完成前に会津藩へ転封となり、二代目城主となった蒲生忠知により
二の丸・三の丸を含む平山城・松山城を完成させたものの、
子供がいなかったため蒲生家は断絶、松平定行が三代目藩主となり、
以後明治維新までの235年間松平家が城主を務めた。
天守は1784年の落雷で一度焼失し、ペリーの黒船来航の翌年(1854年)に再建されました。
それが現在の天守。
現在日本には12の現存天守が残っていますが、
松山城はその中で唯一、親藩である証の「葵の御紋」が付されたお城なのです。
そして現存天守の中でもっとも新しいものでもある。
2011年にはじめて愛媛に来たときに松山城に登った。
そのときは時間の都合上、三の丸や二の丸をすっ飛ばして、本丸まで登ったものの、
天守閣の中には入らず引き返した。
それから6年。
ようやく松山城への核心へと迫る。
松山城はお堀に囲まれた平地部の三の丸、
勝山山麓にあって政務や藩主家族の居住場所であった二の丸、
標高132メートルの勝山山頂部に建てられた本丸が、
南西から北東へと斜めに連なる平山城です。
築城は1602年に加藤嘉明により取りかかるが、
完成前に会津藩へ転封となり、二代目城主となった蒲生忠知により
二の丸・三の丸を含む平山城・松山城を完成させたものの、
子供がいなかったため蒲生家は断絶、松平定行が三代目藩主となり、
以後明治維新までの235年間松平家が城主を務めた。
二の丸の建物は明治維新後は一時期県庁として使われていたものの、
明治5年(1872年)に火災により焼失、270年の歴史に幕を閉じた。
その後は跡地に病院や学校が建てられていた時期もありましたが、
1992年、現在の二之丸史跡庭園が整備・開園し現在に至ります。
広島県福山市の「神勝寺 禅と庭のミュージアム」に行った折、
せっかくなので福山で一泊しようと福山駅前に宿を取ることに。
福山駅の北側には福山城があり、東京で会社員をしていた頃、
実家に帰省する度に新幹線の車窓からこの福山城を眺めていたものですが、
上京してからじつに25年以上の月日を経て、ようやく訪れることができました。
福山駅は新幹線はもちろん、在来線も高架の完全な高架駅なのですが、
駅周辺の南北を結ぶ道路は狭く、南側の雑多な繁華街に対し、
北側は天守閣を博物館にした福山城博物館をはじめ、
ふくやま美術館や広島県歴史博物館などが集まる静かな文化エリアとなっています。
線路を挟んでまったく異なる顔を持っているのが特徴的です。
今回は北側の見事な美術空間をレポートしていきます。
淡路島の洲本城を訪れました。
築城は室町時代ですが、明治になって廃城、現在の天守閣は昭和になって建てられた
「模擬天守」だそうですが、模擬天守としては日本最古のものだそうです。
お城にしてはめずらしくピロティがあり、他の城郭とは一風変わった雰囲気を出しています。
立派な石垣も特徴的。
キレイに手入れされている金沢城などとは違って、適度に放置されていることで、
廃墟感、自然との融合感が良い感じが出ていると思います。
入場無料、ということもあって、けっこう人も訪れてました。
伊予の小京都、大洲のお城に行ってきました。
肱川河畔の小高い丘・地蔵ヶ岳に建つ美しい天守閣は、
鎌倉末期に伊予宇都宮氏により創建、藤堂高虎による大規模な修築を経て、
明治時代に老朽化により解体されたものの、地元住民による熱心な保存活動により
平成16年に復元されたものです。
現物を見た時は、小ぶりながらキレイなお城だな、と思ったのですが、
四層四階の天守閣は戦後復元された木造天守としては日本一の高さなのだそうです。
故郷・広島。
実家は広島市の隣の安芸郡海田町。
家族が市内で喫茶店をしていたこともあり、
子供の頃は市内によく出かけていた。
二十歳で上京した後はなかなか故郷に戻ることもないのだけど、
ここには自分の原風景がある。
世界で初めて原子爆弾による爆撃を受けた街として、
平和の街、というプライドがある。
それでも久々に故郷に戻ってみると、
故郷について十分知っているようで知らない部分がまだまだたくさんある、
ということに気付かされる。
ちょっと距離をおいて眺めることで見えてくるものもある。
東北大震災の直後から東京を出て、およそ5日ほど中四国地方にいました。
それは決して避難的措置からではなく、
単に就活の面接とそれに伴う帰省、というまったくの偶然のタイミング。
東北を襲った未曾有の震災に対して、
自分はことさら過剰に反応しないようにしています。
普段どおり生活することを心がけています。
もちろん計画停電や気持ち程度の義援金、節約には協力しますが、
部外者である自分が今すべきこと・できることは、
「自分の人生をしっかり生きる」ことだと思うからです。
何もできないなら、せめて邪魔にならないようにしよう。
画面から入ってくる情報だけで、余計な不安を煽り立ててはいけない。
何もできないなら、せめて復興活動が成功するように祈ろう。
周囲が元気なら、不遇に見舞われた人々もやがて元気になれるはずだから。
松山といえば、お城と温泉。
お城は思った以上に高いところにあって、立派なお城だった。
温泉は思った以上に街中にあって、松山の憩いの場となっていた。
街は大きすぎず、ほどよいスケールでゆったりとしている。
まさに漱石と子規の愛した文化の街だね。
松島や ああ松島や 松島や
日本三景の1つ、松島に行ってきました。
といっても純粋に松島観光が目的なのではなく、
「美の巨人」で知った藤田喬平の美術館訪問が最たる目的。
こちらについてはまた別途記事でレポートします。
...とはいってもやはり松島は松島。
とても美しいアーキペラゴ(多島海)でした。
海と山を同時に満喫することができます。
仙台駅からは東北本線、仙石線の両線から行くことができます。
東北本線では松島駅まで20分、
仙石線では松島海岸まで40分ほど。
ただ東北本線の松島駅は、観光地スポットまではやや遠いので、
観光メインの場合は仙石線松島海岸から行くことをオススメします。
一方藤田喬平美術館は松島駅からのほうが近いです。
[熱海城]
2009年4月。
クレマチスの丘に行った帰りに熱海に途中下車。
翌年2010年4月。
MOA美術館へ行くために再び熱海へ。
かつては観光地、温泉保養地としてにぎわった街も。
(にぎわった頃の熱海に来たことはないけれど)
時代の変遷とともに街はその姿を変えてゆく。
金沢城跡は僕が知っている限り、一番キレイで居心地の良い城跡です。
...といっても僕が知っている城跡なんてそれほどないのだけれど。
天守閣は焼失してすでにないのだけど石垣がけっこう有名。
そして五十間長屋は実に美しい。
兼六園と並んで広く、開放的で緑が多い。
実に気分の良い場所です。
そんな金沢城跡の画像ライブラリ。
[千光寺大師堂]
しまなみ海道広島側の玄関口、尾道。
「坂の街」「文学の街」「映画の街」。
林芙美子、志賀直哉などが居を構えた街であり、
小津安二郎監督の「東京物語」が撮影された街であり、
大林宣彦監督の「尾道三部作」の舞台となった街である。
しまなみ海道を自転車で横断するにあたり、まずはこの街を散策。
しかし、坂の街だけに自転車での移動はなかなか骨が折れるものでした...
【追記】
2017年5月、NHKの「ブラタモリ」で尾道を特集していました。
尾道は3つの山に囲まれた町ですが、
かつては今よりもっと平野部が少なく、海がもっと内陸部まで入り込んでいて、
尾根の際に張り付くように道が走り、人が集まっていました。
それが「尾道」という町の名前の由来です。
千光寺公園を見れば分かるように、尾道の山肌には巨岩がゴロゴロしており、
昔から神聖な場所とされていたことから、
尾道三山の千光寺・西國寺・浄土寺を中心に多くの寺社が建てられました。
また、尾道の近く(現在の世羅町辺り)には大田荘という大きな荘園があり、
尾道はこの大田荘でできる作物を積み出す港町として栄え、
多くの寺社も港町の商人たちによって建てられました。
こうして町が栄え、人が増えるに連れ、海を埋め立てて町を広くしていく一方で、
明治になって聖域と俗域の境目である山の際に鉄道が通ると、更に町は拡大してゆき、
寺社は土地を貸し出し、人々は山肌にも家を建てるようになりました。
そして埋め立てられることで尾道水道は川のように幅が狭くなり、
元々寺社が多かった山肌にも町は広がり、尾道は坂の町となったのです。