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2010年1月17日

「私は神よ」

読書/ 文学/ 学業

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中村先生の特講Ⅰの後期テストの第四問。


「ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』において、
 エドワルダの「私は神よ」という台詞の意味はどのようなものか?」


エロティシズムは哲学である。

しかし人はエロティシズムを本心では求めているのに表面上は敬遠する。

それは日常生活を脅かすものだから。
意味の過剰さがもたらす暴力だから。


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人間は生を受けた時点から自我がはじまる。
自我は社会の中において、利害関係のしがらみに囚われる。
それでいて、非連続的存在であるために自我は常に孤独である。
だから常に自我から逃げ出したい衝動があり、
「脱我」に至高性を見出す。

最も顕著に人々に脱我を与えるのは、
絶対的存在である「神」を信仰する宗教的脱我である。
バタイユ自身最初は敬虔なカトリック信者で宗教的脱我の経験者であるが、
やがて彼は性的快楽、エロティシズムにおける恍惚感(エクスタシー)に中にも
脱我があることを発見した。

神は偉大であるがゆえに必要以上の「意味」を与える。
意味の過剰性である。
エクスタシーは暴力的なものであり、ある意味過剰である。
それゆえ日常生活を脅かすものとして、
太古の民族では儀式として制限されていたこともあった。

マダム・エドワルダの中の「俺」は快楽をただ快楽を求めて娼館に来たのに、
やってきたものは「自分は何者なのか?」という苦悶(過剰)であった。

以上よりエロティシズムがもたらす脱我は神がもたらすエクスタシーと等価である。
それゆえエロティシズムの象徴である娼婦は「神」自身となる。


...ちょっと付け足し、修正したかも。



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