建築へ―ル・コルビュジェ ソーニエ

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図書館で見つけたル・コルビュジエの著書。

建築をめざして」とは別の本なのだろうか。
「建築をめざして」を読んだのがけっこう前なので、今となってはよく分からない。

「ソーニエ」とはなんなのか。
これも本書を読む限りではよく分からなかった。

相変わらず難解な文章だけれど、
一文の長さが短く、1ページに掲載される文章量も比較的少ないことで
コルビュジエの文章にしては読みやすかったかな。


建築へ。

巨匠が人々に建築が向かうべき本質的な「道」を導く。

今にしてみれば極論過ぎる部分も少なくない。
それでもこの本の内容は古びない。
今以てなお、学ぶところが多い本ではないだろうか。


僕が辿るべき「建築道」とはどんなものなのだろう。

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[建築を飛躍的に進化させたドミノ・システム]


19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて人々の足並みは急速に速まった。
小回りのきくスケールの小さなものから産業化の波にのみこまれていった。
スケールの大きな建築は当然その足並みから遅れることになる。
そんな世の中のスピードが速くなり出した状況に感性豊かな建築家は危惧感を抱く。


技術者の美学、建築。二つの依存し合い、関連し合うもの。一方は満開の状態にあり、他方は惨めな後退にある。技術者は、経済の法則に活力を受け、計算に導かれて、われわれを、宇宙の法則に一致させる。建築家は、形の秩序立てによって精神の純粋な創造である秩序を実現する。建築家は、形によってわれわれの感覚に強く働きかけて造形的感動を引き起こし、自ら創り出す関係によって、われわれのうちに深い反響を呼び起こして、われわれに世界の韻律との一致を感じさせる秩序の韻律を与える。それをわれわれは美と感ずる。(『技術者の美学』)

技術も芸術も、どちらも大切な「秩序の韻律」なのだ。
その適度なバランスが保たれてこそ、「美」は花開く。


われわれの目は光の下の形を見るためにできている。原初的な形は美しい形である。なぜなら、それらは明らかに見て取れるからである。今日、建築家はもはや単純な形を作らない。技術者は計算し、単純な形を使い、幾何学によってわれわれの目を、数学によってわれわれの精神を満足させる。技術者の製品は大芸術に近づく。建築は様式とは関係がない。ルイ十五世、十六世、十四世様式やゴチック様式は、建築には婦人の頭の羽根飾りのようなもので、時には美しいが、常にというわけではなく、それ以上のものではない。(原点に復帰の三つの呼びかけ 建築家諸氏に Ⅰ立体)

僕らは立体の世界に生きている。
イメージは頭のなかのシグナルに過ぎないが、
そのシグナルが優れた立体を生み出す。
問題は、現在はそのシグナルにあまりに偏りすぎている、ということである。
シグナルは光の影響を受けない。
だから光の下で得られる感動もない。

立体だからこそ得られる「光の下で感じる感動」を
もう一度想い出すべきではないだろうか。


立体は面によって包まれ、立体の母線と導線によって分割されて、その立体の個体性を明示する。建築家は今日、面の幾何学を恐れる。近代的な建設の大問題は、幾何学に基づいて解決されるであろう。絶対的な計画の厳しい要求に従って、技術者は、形を産むものと明示するものを使って、清澄な印象深い造形的な製品を創り出す。建築は光の下に集められた立体の精通した正確な素晴らしい操作であるから、建築家は、それらの立体を包む面が、寄生物となって自らのために立体を食い吸収することなく生きるようにさせる、務めを負う。面が立体の寄生物となるのは現代の悲しい話である。(原点に復帰の三つの呼びかけ 建築家諸氏に Ⅱ面)

今のグラフィック重視の現代を正確に予測する文章ではないだろうか。


  「立体の寄生虫」


...なんとも上手い表現じゃないか。


プランは生み出す母体である。見る人の目が、街路と家々のつくる景観の中を動く。その目は、周囲に立つ立体の衝撃を受ける。もしそれらの立体が明確で、時代に合わない変更を受けていず、それらをまとめる秩序立てが明快なリズムを示して、脈絡のない寄せ集めではなく、また立体と空間の関係が正しい比例によって作られているなら、目は整合された感覚を脳に伝え、精神はそれから高い次元の満足を引き出す。それが建築である。...(中略)...プランが基礎にある。プランがなければ意図や表現の大きさも、リズムも、立体も、脈絡もない。プランがなければ形が定まらず、貧しく、混乱した、放縦なといった、人間に耐えられないあの感覚がある。プランはもっとも活発な想像力を必要とする。またもっとも厳しい訓練をも必要とする。プランはすべての決定であり、決定的瞬間である。プランは、聖母マリアの顔のように描いて美しいというものではなく、厳しい抽象化であり、見た目には潤いのない応用数学に過ぎない。(原点に復帰の三つの呼びかけ 建築家諸氏に Ⅲプラン)

図面は見るからに「論理的」の象徴である。
しかしその内面に「感覚的」で「感情的」なものが潜んでいなければ、
その図面は「よいもの」「美しいもの」は生み出せない。
技術が発達したからといって、芸術が退化するわけではないのである。
技術は常に変化的であり、芸術は常に恒常的なだけである。
変化は常に進化を目指し、本質はただ変わらないだけである。
本質は変わらずとも、その表現の仕方は人の数だけ無限にある。
だから芸術はなくならない。


偉大な時代が始まった。新しい精神がある。新しい精神の作品が多くある。それらはとりわけ工業製品の中に見られる。建築は慣習の中で息を詰まらせている。「様式」は嘘である。様式、それは、一時代のすべての作品を活気づける原理の統一であり、原理の統一は性格づけられた精神から生ずる。われわれの時代は、毎日、自らの様式を定めている。われわれは、不幸にも、それを見分けることができないでいる。(みえない目 Ⅰ商船)

建築が新しい時代に追随するために必要なもの、その1。
悪しき風習からの脱出。
変えるべき変化と変えるべきでない本質。
どちらも大切であり、そのバランスがより重要である。


飛行機は高度の選択の産物である。飛行機の教えは、問題の表明とその実現とを統御する論理にある。家の問題は設定されていない。建築の現在の事物はわれわれの要求に答えていない。とはいえ住まいの標準はある。機械は、それ自身の中に、選択する経済の要因を持つ。家は住むための機械である。...(中略)...結論、近代人すべての中に機械的なものがある。機械的なものの感情が、毎日の活動によって生じて存在する。この感情は、機械的なものに対する尊敬、感謝、驚嘆である。機械的なものはそれ自体の中に経済的要因を持ち、それが選択をする。機械的な感情の中に道徳的感情がある。知的で冷静で沈着な人が翼を得た。知的で冷静で沈着な人が、家を建てるため、都市を計画するために求められている。(見えない目 Ⅱ飛行機)

かの有名な台詞の部分。

建築が新しい時代に追随するために必要なもの、その2。
「機械的な感情」への順応。

ある意味「機械」は人間が人間であるための象徴なのかもしれない。
人間は自然の一員である。
しかし人間には人間しか持ち得ない叡智がある。
その象徴が「道具」であり、「機械」なのである。

人間が人間らしくあるために「機械」は必要である。
しかし「機械」がどんなに偉大でも、「自然」を征服してはならない。
そのエゴが奢りであることは、20世紀末から21世紀初頭にかけての
数々の異常現象を見れば明らかである。

技術が未熟だからこれらの異常現象を解決できないのではない。
機械が自然を征服しようとしているから世界が歪んできているのである。

これからの時代は機械と自然が共存していくための技術、
それが技術進化の正しい方向なのではないだろうか。


完全さの問題に立ち向かうために、標準の作定に向かわなければならない。パルテノンは、標準に加えられた選択の産物である。建築は標準を支えとして働く。標準は、論理、分析、細心の研究の対象であり、よく設定された問題の上に作定される。実験が標準を決定的に確定する。...(中略)...建築は造形的発明であり、知的思考であり、優れた数学である。建築は誇り高き芸術である。標準は、選択の法則によって課されて、経済的、社会的な必要である。調和は、われわれの宇宙の規範との一致の状態である。美は支配する。美は、人間の純粋な創造であり、高い魂を持つ人にのみ必要な余剰である。しかし、完全さの問題に立ち向かうために、標準の作定に向かわなければならない。(見えない目 Ⅲ自動車)

建築が新しい時代に追随するために必要なもの、その3。
「標準」の確立。

標準とは、共生のためのルールである。
マスプロ時代の核となる部分である。
大々的な標準化が大衆の文化レベルを飛躍的に向上させた。

しかしその一方で行き過ぎた標準化が、
個性の喪失、という本末転倒な障害を生み出したのも事実。
あくまでみんなが仲良く楽しく幸せに過ごすための最低限のルール。
それが標準化の存在意義である。

幸せの形は人それぞれ。
だから「標準化」は社会の中であくまで控えめな存在でなければならない。


われわれの時代は、これら最近の五十年間だけによって、過ぎ去った十世紀間に相当している。前のそれら十世紀の間、人間は「自然な」と形容される方式によって生活を秩序立ててきた。彼は、自分自身で仕事を企て、仕事をよい結果に導き、その小さな企てすべての主導権を持っていた。彼は、太陽とともに起き、夜は寝て、道具から離れるとともに、翌日取りかかる毎日の仕事と主導権への専念からも離れた。彼は、自分の家で、小さな仕事場で働き、そして彼の家族は彼の廻りにいた。彼は、殻の中のかたつむりのように、正確に自分の寸法に合わせて作った住居の中で生活し、結局、十分に調和しているその事態を変えるように彼を誘うものは何もなかった。家族の生活は正常に進んだ。父親は揺りかごの子供を見守り、次に仕事場を監督した。労力と利得の引き継ぎは家族集団の中で妨げなく行われ、家族は益を得ていた。ところで、家族が益を得ているときは、社会は安定し存続することができる。これは家族を基準単位として組織されていた十世紀間の仕事についてのことであるが、同様に十九世紀の半ばまでの過去のすべての世紀についてのことでもある。(『建築か、革命か』)

かつて仕事は家族単位だった。

うちの家族はパン屋、お隣さんは八百屋、お向かいさんは電気屋...といった具合に。

それがいつしか仕事の単位は会社などの法人単位になってしまった。
大きなことをするためには大きな組織が必要なのは分かるけれど、
はたして大きな幸せは大きな事業でなければならないのだろうか。

「グローバリズム・スタンダード」が20世紀のスタイルだとするなら、
「ローカル・コネクション」が21世紀のあるべきスタイルではないだろうか。


最低限のリソースで最大限の幸福を引き出す。
ミースの言う「レスイズモア」の理念は今も健在である。
...あ、コルビュジエの本のレビューだったね。


結局の所、偉人たちが辿り着くところは同じなのだ。
辿ってくる道が違うだけ。
そしてその「道」が個性なのである。


僕は僕の道を探す。
一生をかけても。