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2008年3月10日

評伝ミース・ファン・デル・ローエ【フランツ・シュルツ】

建築デザイン/ 読書

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建築界における20世紀三大巨匠の一人、ミース・ファン・デル・ローエの評伝。

哲学士、美学を修めたアメリカのフランツ・シュルツ氏が1985年に発行したものを
建築学科卒業の経済学教授の澤村明氏が邦訳。

原題が「Mies Van der Rohe, A Critical Biology」で、
「Critical Biology(批判的な伝記)」となっているように、
いわゆる賛美本ではなく、研究者としての立場から
ミースの人生及び建築作品が客観的に、そして冷静に分析されてます。

天才といえど彼も一人の人間であり、
全ての面において恵まれていたわけじゃなかった。
彼のきらびやかな面だけがクローズアップされがちだけど、
この本を読む限り、彼の人生の前半はけして恵まれたものじゃなかった。

とにかくミースの人生について克明に記されてます。
プロフィールを見る限り著者は建築の専門家でもないようなのに、
ミースの建築について事細かに解説しています。
そして哲学士、美学者という観点からただ作品の外観だけでなく、
その作品に込めたミースの思い、といった感覚的、美学センスといった
精神論に至るまで詳細に解説されてます。

難しい専門用語がこれでもか、というくらい出てきます。
加えて邦訳というせいもあってか文章が難解。

...なので建築はともかく、美学や哲学は素人同然の自分には、
書いてあることの半分くらいしか理解できなかった気がします。

その半分の理解度で感じたことを書き記しておきたいと思います。
もう少し勉強した後でいつかもう一度読み直したい。

"Less is More(より少ないことは、より豊かなこと)"

厳正な合理化により無駄なもの極力削ぎ落とす究極のシンプル化。
それでも彼の根底にあったものはトラディショナルなものだった。
装飾を廃し、斬新で革新的な空間や構成を求めても彼はシンケルを忘れなかった。



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ミースの人生は大きくドイツ・ベルリン時代とアメリカ・シカゴ時代の2つに分けられます。

本書では前半三分の二くらいまでドイツ時代で占められています。
けして作品の数がページ数に比例しているわけではなく、
逆にドイツ時代では機会に恵まれず、実現されなかった作品が多数あった。
ドイツ時代はミースの才能に時代が追いつかなかった。
バウハウス三代目の校長を経て、ナチスの台頭により故国を捨て、
シカゴへ新天地を求める。このときミースはすでに50歳。

そしてシカゴにてようやく自分の立てたい建物が建てられるようになる。
まさに遅咲きの、大器晩成の人生。


家庭人としてのミースはけして褒められるものではなかった。
彼は良い父親じゃなかった。

ドイツ時代に資産家の娘と結婚。三人の娘を授かる。
しかし彼は仕事人間でさらに愛人を囲い、家庭を顧みなかった。
妻はその後死ぬまで精神を病み続ける...

その後ベルリン時代にリリー・ライヒ、シカゴ時代はローラ・マルクスと愛人関係。
二人ともミースのよき理解者だったにも関わらず、ミースは内向的で
自分の内に閉じこもり、彼女らを真の伴侶としなかった。

晩年、ローラはミースに問います。

「どうして結婚してくれなかったの?」

それに対するミースの答えは、

「自由をなくすんじゃないかと恐れていたんだ。
 そんなことなかったろう。
 ナンセンスな妄想だった。」

後悔してもすでに遅し。
理解者がすぐそばにずっといたにも関わらず彼はずっと孤独であり続けた。
幸、不幸は本人が感じるものなのでミースが幸福だったかどうかは
案じても仕方がないけれど、もし自分だったら。

...孤独な人生では終わりたくない。
たとえいろんな意味で自由であったとしても。


さて、ミースといえば高層ビルディング、というイメージが強いですが。
ドイツ時代は主に住宅を設計していました。
ミースの住宅作品といえば、ファンズワース邸が有名ですが、
これはアメリカ時代のもので、この建物の施主とは色恋沙汰になった上に
最後には裁判沙汰にまでなった曰く付の作品なのです。

ただのスキャンダルならまだいい。
この建物は確かに美しい。しかし機能的ではなかった。
そしてかさんだ建設費。

施主の生活環境を無視してひたすら自分の美学を追及する。

...この行為ははたして良い建築家、良いデザイナーといえるだろうか。

さてドイツ時代の住宅に話を戻して。
リール邸ではじまったミースの住宅設計は、
最初はドイツの伝統的な家屋を踏襲したものだった。


[リール邸(ベルリン-ノイバーベルススベルク、1907年)]

しかしやがて独自の路線へと走り出す。
低いフラットルーフ、奥行きに対して幅広のファサード、
壁で遮蔽せずフリースタンディングウォールで空間を流動させる室内
(ユニヴァーサル・スペース)、
水平方向へ広がる室内から室外への空間流動...

これらの特徴を劇的に表したものがバルセロナ・パビリオンであり、
住宅にしたものがトゥーゲントハット邸。
この時代にしてガラス窓が電動で動く、というハイテクを導入してます。

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[バルセロナ・パビリオン](出典:Wikipedia)

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[トゥーゲントハット邸(チェコ-ブルノ、1930年)](出典:Wikipedia)

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[トゥーゲントハット邸内部](出典:Wikipedia)


ドイツ時代は時勢や状況が悪く、なかなか建てたい建物が建てられない。
それでもミースは意欲的に設計し続ける。
フリードリヒ街オフィスビル案、鉄とガラスのスカイスクレーパー案、
コンクリート造田園住宅案、煉瓦造田園住宅案...


[フリードリヒ街オフィスビル案(1921年)]


[鉄とガラスのスカイスクレーパー案(1922年)]


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[鉄筋コンクリートオフィスビル案(1922-1923年)](出典不詳)



[煉瓦造田園住宅案(1923-1924年)]


これらの設計案がやがてシカゴでの豊富な作品群へと繋がります。

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[シカゴ: レイクショアドライブ860/880](出典:Wikipedia)



[シカゴフェデラルセンター]


バルセロナ・パビリオンやトゥーゲントハット邸などの低いフラットルーフの建物と
レイクショアドライブ860/880やシーグラムビルなどの高層ビル。
ミースの建築は主にこの二種類に要約されるのですが、
この2タイプの相関性、というものがいまいちまだ把握できていないのです。
どちらも極限までの合理性、シンプル性を求めるものだとは分かるのですが。
...それだけでは説明しきれていない気がする。


本書では他の三巨匠、コルビュジエやライトとの接点も書かれています。
コルビュジエとはベルリン時代に勤めていた師匠ペーター・ベーレンス事務所で
出会ったほかにシュトゥットガルトでのドイツの主要建築家を集めて開催された
建築展覧会で交流があったようですが、あくまで社交辞令程度で、
それほど深い交流はなかったようです。

ライトはコルビュジエ、ミースより一世代前の人間で、
彼らに少なからず影響を与えたようです。
ミースは最初はライトを尊敬し、ライトのタリアセンにも1度訪問しており、
ライトも最初はミースを認めていた。
しかしミースがシカゴに移住し、IIT(イリノイ工科大学)を中心に
アメリカで活動を開始した頃から二人の関係は徐々に冷えていく...

結局両雄相容れず、英雄相並ばず、というものなのかな。


ミースの死と共にモダニズムは終焉を迎え、
現在はポストモダンの時代だと言われています。
しかしその実体はいかなるものなのか、それを明確に答えられる人はいない。
現代アートの姿がはっきり見えないのと同じように。

モダニズムが悪いとは僕には思えない。
シンプル化は今だって必要だし、合理化が全くムダな時代だとも思えない。
ミースの美学は現在にだって十分通用すると思う。
シーグラムビルは今見ても美しい。

ただそれまでのモダニズムだけではダメだとは思う。
さまざまな文明変遷、文化変遷、技術変遷を経て、
現在はあまりに複雑になりすぎた。

何かしなけれなならないけど、あまりに多様化しすぎてイズム(主義)として
統一しきれない時代なのかしれない。
もはや統一は意味のないことなのかもしれない。

過去の遺産を必要なときに必要な組み合わせで使う。
そういう時代なのかもしれない。

だから人間には伝統回帰、原点回帰という志向が備わっているのかもしれない。


最後に一番共感したミースの言葉を抜粋します。

私は改革者ではない。私は世界を変えたくはない。私は表現したいのだ。それが私の望む全てだ。



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